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「吃音ラジオ」の放送で、話しそびれたこと

 いんこ(山田)です。

 昨日、5月7日、「吃音ラジオ」という番組に出演させていただきました。

 以前からこの番組にはとても興味がありました。だから、hiroさんから、出演のお話を頂いた時も、ものすごくうれしかったです。収録の時も、とてもワクワクしながら、お話しさせていただきました。MCの方たちやスタッフの皆様からもとても親切にしていただき、楽しく、お話しすることが出来ました。

 このような機会を頂き、hiroさんをはじめ、スタッフの皆様、改めて、本当にありがとうございました。

 「吃音との付き合い方」の一つでもあるのですが、最近の僕は、この種のインタビューの場面では、事前に何を話そうか、あまり準備しないことにしています。その場その場で思いついたことを、お話しした方が、自由にお話しできるし、僕自身が思ってもみなかった言葉が口から出てしまったりするので、話していてとても楽しいのです。

 だから、ワクワクしていた割には、あまり準備せず、後から振り返ると、お話ししたりなかったかな、と思うようなことや、「ちょっと言いすぎてしまったかな」と思うような部分も、いくつかありました。そういうわけで、収録の時に、お話しできなかったことについて、ここでちょっとだけ、弁明のように、書かせていただければと思っています(放送がまだなので、どのような形の番組になるかはまだわからないのですが…)。

1.演劇の話について

1-1. 現代日本における三つの演技の種類

 収録の時、新劇、竹内レッスン、現代口語演劇、の3つの考え方を引き合いに、僕自身が演劇を通じて、吃音とどう向き合っているか、というお話をさせていただきました。

 今、僕は、無隣館という演劇塾で、平田オリザさんという方から演劇について習っています。ただし、僕自身は演劇についてはこれまでそこまでちゃんと勉強してきたわけではありません。だから、以下の説明には間違いが多く含まれているかもしれないのですが、僕は、収録の際にお話しした3つの演技論について、次のように捉えています。

①新劇(前期スタニスラフスキー)

→心身二元論に基づく。台本の内容を細かく解釈し、役の内面(気持ち)を分析し、その気持ちを役者が自分の内面に作り上げ、演技を行う。独特のセリフの抑揚や「リズム」がある。また、「こういう時にはこういう演技をする」という伝統芸能のような「演技の型」がたくさんある。模倣や反復練習などといった意識的な作業によって、「リズム」や「型」を習得し、その感覚を技術として身体化(無意識化)させる。

②竹内レッスン(後期スタニスラフスキー)

→心身一元論に基づく。自分の内側における無意識の変化を感じとる「体操」(無意識を意識化させること)と、他者や環境へとからだがと向かっていく「行動」(からだの動きを意識から無意識の領域に引き戻すこと)とが、統一されたときに、「演技」(真の人間的な行為)が出来上がる、と考える。

それを実現させるために「出会いのレッスン」「呼びかけのレッスン」などの様々なレッスンがある。その場その場で、他者や環境とからだ(心身二元論的な意味での身体ではなく、人間の存在全体を「からだ」という言葉を使って表現している)の双方的な関わりの内に起こる無意識の働き掛けの中から、「演技」が生まれていく。

 新劇の演技についての考え方を、「どれほど努力し精密にやってのけても、行為の蓋然的ななぞり、でなければ干からびた押し花に過ぎない」と批判する。

③現代口語演劇(平田オリザさんの考え方)

→他者や環境との関りの中から演技を作り上げていくという考え方は、竹内レッスンに近い。ただし、「0.5秒間を空けて」「30度うなずいて」「音の音程をもう少し高くして」などの、演出家による外部からの客観的で明確な統制的指示(からだから意識を分散させる)によって、それを実現させる。

 「人間が普段生活の中でしている動きを、意識して、自由に組み合わせて、何度でも繰り返すことが出来る(マイクロスリップが消えない)」ことが、良い俳優の条件。

 反復練習は、文脈が決まっている特定の環境下では有効だが、変化する複雑な環境へは適応できないと考える(マイクロスリップが消えてしまう)。

1-2. ①の演技の当事者研究

 僕は、演劇をする際、歌や斉読、独り言を言う時と同じく、吃音症状が完全に消えます。多分、この時に行っている演技は、①の演技に近いのではないかと考えています。僕以外でも、舞台上で吃音症状が消えるという吃音者の方が一定数いらっしゃると思うのですが、僕の知る範囲では、その方たちも、どちらかと言うと、見ている限りでは、①に近い演技をしているように見受けられます(勝手な外からの見立てですが)。

 なぜ、①の演技をするときには吃音が消えてしまうのか。理由はいろいろあると思うのですが、一つには、「リズムに乗れる」というのが、吃音症状が完全に消える理由の一つなのかな、と現時点で僕は考察しています。歌や伝統芸能ほど、露骨なリズムではありませんが、新劇的な演技の役者さんの方には、独特のリズムのようなものがあると僕は考えています。

 僕は中学生の頃、ラジオドラマにハマっていて、そこで、永井一郎さんをはじめ、新劇系の役者さんたちの演技や口調を「いんこのように」一生懸命模倣していた時期がありました。その時に無意識のうちに身体化させた「リズム」や「型」を、演技の際に、今でも、使っているような気がします。それが、もしかしたら、「舞台上で吃音症状が消えること」につながっているのではないかな、と今のところは考えています。

 そして、もしかしたら、そのような「リズム」や「型」を、「吃音症状を制御するため(サバイバルのため)」に、無意識のうちに、日常生活でも、今の僕は使っているかもしれません。そ

 「リズム」や「型」の感覚を自分の身体内部に作り上げ、それに「乗る」ことで、「話しやすさを覚える」ことは、実は、吃音の言語訓練の一部(軟起声やメトロノーム法)とかなり共通性の高いものであるような気がしています。僕は吃音矯正の為に、そのような「話し方の工夫」を身に着けたわけではないのですが、無意識のうちに、同じことを身に着けていたのかもしれないな、と今の僕は考えています。

 そして、「吃音を治したいと思っていないこと」と一見矛盾しているように見えますが、そのことを、僕はそんなに悪いことだとは思っていません。

1-3.②と③の演技の当事者研究

 ②や③の演技も、僕は何度か経験したことがあります。②の演技は、これまで数回くらいしかちゃんとやれたことがありませんが、③の演技は、平田オリザさんのワークショップなどで、何度も経験しているつもりです。

 どちらも、今の自分にとっては、セリフ発話時に不安を感じ、吃音症状も出やすくなります。特に②の演技をするときには、環境や他者(相手役)に対してかなり無防備にならないといけないので、相手も同じように集中して真剣に取り組んでくれないと、精神的にものすごく傷つきます。また、逆に、僕の集中力が低いと、相手をすごく傷つけることもあります。②の演技をする時は、相手役がいる場合、深く集中している方が、圧倒的に傷つくものなのです。竹内さんの言葉を使うと「出会う次元が深い方が、傷つく」ということだと思うのですが。

 しかし、②の演技をうまくできた時、演技しきったと感じた時の充実感はすさまじいものです。多分、多くの俳優の方たちが、最終的に目指したいと思っている演技は、②の演技なのではないかと思います。しかし、僕は、傷つくことがあまりにも怖いので、普段舞台に立つときには、なるべく②の演技をやろうと思うものの、だいたいは①の演技のやり方を押し通してしまうことが多いです。

 一方、③の演技では、②の演技と同様、発話時に不安を覚えることはありますが、そこまで傷つくことはありません。平田さんは、「演技の際に役者が何を考えていても構わない」とおっしゃっていますが、③の演技では、「そこまで役になりきらなくていい」ということが、安心感を保たせているのかもしれません。②の演技では、自分全体が、心身二元論とは別の意味で、「役になりきらないといけない」ので、「演技をしている自分自身の状況を冷静に把握できているもう一人の自分の存在」を消さなければならず、「怖い」のです。実際に、意識が分散されてしまうと、そんな余裕は全くなくなるのですが、①の演技の時と同様、③の演技の時は、「今、自分は演技をしているのだ」という「離見の見」の地平に、ちゃんといつでも戻ることが出来ます。「(無意識にゆだねているとはいえ)自分の演技をいつでも自分で統制できている」という安心感(自己効力感)を保てていることも、傷つかなさに、一役買っていると思います。

 それでも不安さを覚えるのは、身体から意識を分散させ、その場その場で他者(相手役)や環境と関わりながら演技を作り上げていくことに慣れていないためだと思います。僕は、多分、普段、無意識のうちに、日常生活で、「サバイバル」のために、吃音を制御するための独特のリズムや「型」を多用することで、安心して、他者と関われているのではないかと思います。意識を身体から分散させてしまうと、その選択肢が僕の身体から完全になくなってしまうので、「不安」な状態に陥りやすくなるのではないかと思われます。

 そこまで演技と吃音の関係について深く考察している吃音者の方を僕は多く知らないですし、ちゃんとお話ししたこともなく、全くの僕の独断と偏見に基づいている考察ですが、おそらく、②や③の演技を身に着けようとしている吃音者の方たちは、「吃音を制御するために普段使っている種々のテクニックを手放た上でなお、吃りながらでも身体を外界に開き、他者と関わっていく練習」を、演技を通して獲得しようとしているのではないかと僕は思っています。

 僕も、今は不安ですが、いつか、そういう演技ができるようになりたいなあと思っています。ただ、今の僕には、①の演技の方が、安心してできますし、やっていて心地よく、「これも一つの吃音との付き合い方なのではないかな」と考えています。何度も書きますが、僕自身は、「治す努力の否定」という吃音観にとても共感しているので、このことはとても自分の中で矛盾しているなあと思うのですが…。

1-4. 3つの演技の「環境変化への適応力」と「コミュニケーションの深さ(環境との相互作用の強さ)の次元」

 ①の演技では、「型を一つ一つ増やしていく」ことが、多様な状況への適応力を上げていく、ということにつながると思います。一方、②や③の演技では、毎回毎回、その場その場で演技を作り上げていくので、①よりも汎用性が高いものなのではないかと僕は思っています。その分、①よりも習得が難しいと思うのですが、いったん、身に着けてしまえば、汎用性が高いというか。

 別の言葉で言うと、①の演技の方が、②や③の演技よりも、状況適応力が弱く、浅いレベルでのコミュニケーションしか取れないのではないかと思うのです。環境と強く相互作用(コミュニケーションを強くとる)時には、人は、型やリズムなんて使わないで、その場その場で、無意識のレベルで、からだを動かすものなのだろうと思うからです。

 もしかしたら、①の演技ばかりに頼りすぎてしまうことが、「吃ったときの不安や恐れ」をより、増長させてしまったり、環境変化への適応力を下げてしまったり、するのかもしれません。また、他者と深いレベルでコミュニケーションできないために、コミュニケーションの不全感や孤独の感じやすさにも、つながりうるのかもしれないと思っています。

 それは、色々なテクニックを発展させてしまっているために、一見すると普段は「吃っていない」ように見えながら、吃音について深く悩んでいる「隠れ吃音者」が社交不安障害を発症させてしまうメカニズムに、近いものを感じます。

1-5. 新しい演技論の構築に向けて

 僕は、何度も言いますが、「治す努力の否定」という吃音観にとてもシンパシーを持ちます。しかし、実際には、「吃音を制御すること」の「安心」になれてしまい、「吃りながら身体を開くこと」ができずにいるのです。

 ただ、僕自身は、そういう自分自身の「今の吃音との付き合い方」をそこまで否定する気持ちにはなれないでいます。

 実際、①の演技も、それはそれで、一つの「世界との関わり方」「吃音との付き合い方」だと思うのです。

 また、日本の現代演劇の主流は、①→②→③へと、大まかに変化していったと思うのですが、③以後、新しい演技論が生まれるとすれば、それは、何らかの意味で「型」を取り入れることではないのかな、と僕は考えています。演出家による外部からの統制的な指示ではない形で、役者自身が、他者への信頼を回復し、色々なレベルでコミュニケーションをとれるようになるために、ある種の「型」のようなものが有効に働くことが、あるのではないか、と僕には思えるのです。

 もしかしたら、それは、「型を使って、サバイバルしながら、それでも他者と前向きに関わろうとする」という、一部の吃音者が実はやっていることと、とても近いものではないかと僕には思えます。その意味で、「吃音演劇には、新しい演技論を確立するためのヒントが眠っているのではないか」と僕は考えています。

 僕の中で、「サバイバルすること」と、「治す努力の否定にシンパシーを覚えていること」は、吃音と付き合う上で、どう考えても矛盾していることなのですが、それでも、僕個人の内部では、両立できているような気がします。また、「型に頼る」がゆえに、「社交不安障害」の状態におそらくなっている時期や、僕の言葉でいうところの「二重スパイ」の状態になっている時期もありますが、そうでもない時期も、あるような気がするのです。

 だから、「サバイバル」しながらも、社交不安障害にならず、また、「二重スパイ」にもならずに、元気に生き、他者や世界を信頼し、色々なレベルでの豊かなコミュニケーションをとっていくことは、できることであるような気が、今の僕にはするのです。

 では、そのために、何が必要なのか。それらの状態を分ける者とは何なのか。まだ、僕はうまく、探り当てられていません。しかし、このことは、今の僕の中では、かなり大きなテーマなので、引き続き、演劇を使って、当事者研究をしていきたいな、と考えています。

 …と、まあ、今の僕はそんな風に「演技と吃音の関係」について考察しているのですが、しかし、これは、あくまでも、僕個人の当事者研究の成果です。演劇をどう吃音との付き合い方に生かすかは人それぞれなので、「吃音者にとって、①の演技が良くて、②や③が良くない」とか、その逆のことも、僕は言えないだろうと思っています(そんなことは人によって違って当たり前なので、この考察を演劇論一般や、吃音演劇一般に普遍化させてしまうことはかなり危険なことだと思っています)。

 また、これまでの考察にも、ちょっと僕はいくつか怪しい点ですとか、突っ込みどころのあるところが、あるような感じがしています。今後は、もう少し、丁寧に、当事者研究を進めて生きたいな、と考えています。

2.自分の身体を肯定することの、言語化不可能な意味について。

 ラジオでは、吃音との付き合い方として、僕が言葉の教室で学んだことや、そこで身に着けた考え方が、とても、ベーシックになっている、ということをお話しさせていただきました。しかし、それが、具体的に、どのようなものであったのか、ということについては、お話しそびれていました。

 私が言葉の教室で身に着けた考え方の基本は、「不便であることは不幸なことではない」という考え方や、「苦しさや不便さの中にもきっと何かの意味が宿っているのだ」という考え方、あるいは、「コミュニケーションに、甲乙など存在しない」などというという考え方でした。

 それが具体的に一体どういうことなのか。僕は、当時も、今でも、うまく言語化できません。素人なりに、もう2年近く、当事者研究を続けていながら、今でも、そのことに、うまく言葉を与えることが出来ずにいます。

 吃音を持っていてよかったことなんて、基本的には何一つなかったはずなのに、「(吃音を)治す努力を否定する」という考え方に、僕が今でもなお、とても強く共感を覚えるのは、自分でも、なぜなのか。よくわからないでいます。しかし、そのような考え方を身につけられたことは、間違いなく、言葉の教室での経験がとても大きいと考えています。そして、今でも、それは、少なくとも僕にとっては、とてもよかったことだな、と考えています。

 しかし、当事者研究を続けることで、あるいは、違う考えの当事者の方たちと対話を重ねることで、かつて、僕が抱いていたはずの、そのような「吃音を肯定する」考え方が、自分の中から、消えていってしまうような感じを、最近覚えます。

 実は、いま述べた、演技と吃音についての考察についても似たようなことがあって、以前は、こういう風な演技と吃音についての考察を、僕は出来ていませんでした。できなかったのですが、それでも、よくわからなからないながら、僕は演技をしている時、吃音について考えることが出来るような気がして、そのことに、「きっと何か意味があるに違いない」と考え、演劇を続けていました。

 今では、先に述べたような「演技と吃音の関係についての考察」をしていますが、昔、「よくわからないけれども、そのことに意味を見出していたこと」が、自分にとって、とても、大事だったのではないかな、という気がしています。その時にわからないながら感じていた「意味」は、当事者研究によって、うすれていってしまったのではないか、という気が、するのです。

 言ってみれば、当事者研究によって、かつて僕が格闘していた「わからなさ」が消えてしまい、そのことが、何か、寂しいような感じがするのです。ラジオやこの記事で述べたような考察ができたことに、ある種の喜びを覚える一方で、「この考察にどこか間違いがあってほしい」という思いが、します。

 それが、自分にとって、いいことなのか。良くないことなのか。どういう意味を持っていることなのか。今の僕には全くわかりません。本当は、これについてこそ、ちゃんとした言葉を与えるべきなのだと思うのですが、そのことも、今の僕にはできずにいます。

 そんなわけで、当事者研究をすることによって、見えなくなってしまうことの、意味の大きさについて、ここのところ、ずっと考えています。

 ラジオでは、「さきさん」への回答として、「言語訓練もありなのではないか」ということをお答えしました。そのことは、嘘ではないと思っていますが、でもどこか「本当かな」という感じもします。

 また、僕は、「吃音を持つ自分の身体を肯定すること」と、「社会的な支援を求めること」は矛盾しないことであるはずだと思っています。

 しかし、今の日本の吃音者の世界では、二つの考え方が、どこか両立しづらいものであるようにも、思えます。

 もしかしたら、その問題は、この辺りに、あるのではないかな、と、今の僕は、考えています。やはり、それが、一体、どういうことなのか。今の時点で、僕はうまく、言語化できていないのですが…。

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