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12月23日 『吃音と恋愛について語ろう』活動報告文

いんこです。

12月23日(土)に、『吃音と恋愛について語ろう』をテーマに話し合いを開催しました。

以下、内容についての報告文です。

目次

0.概要

1-1.オープンクエスチョン『吃音と恋愛は関係あるか?』

1-2.掘り下げ

2-1.いんこ(山田)の『恋愛のこじらせ(困りごと)』の発表

2-2.みんなの「恋愛の困りごと」

●「恋人」って何だ?

●「親友」って何だ?

●結婚したい

●どもっているのを「引かれてしまう」

●恋愛って、就活みたい

●告白した後のことが不安

●吃音と人格、メタ・コミュニケーション

●話すこと以外のコミュニケーション

●吃音者の「代替手段」について

2-3.二巡目

●人を信じられない

●「演じてしまう」ことがもたらすもの

●「演じられない」ことがもたらすもの

●吃音の「承認」

2-4.「言い換え」ととう付き合ってる?

2-5.感想のシェア

0.概要:

 12月23日(土)、東京大学駒場Ⅱキャンパス先端科学技術センター3号館6階601室にて、『吃音と恋愛について語ろう』をテーマにした話し合いを行いました。今回の参加者は、いんこ(ファシリテーター、参加者としても発言)、Aさん、Bさん、Cさん、Dさん、Eさん、の6名でした(Eさんは、後半からの参加、Bさん、Aさんは途中退出)。

 会を始める前に、①サークルについての説明、②当事者研究についての簡単な説明、③参加者の自己紹介、④会のルール確認、⑤記録についての説明、を行いました。③参加者の自己紹介では、「簡単な自己紹介」「呼ばれたい名前」「本日の体調」「近況報告」の4つをそれぞれが話し合いました。⑤記録についての説明では、「スマホによる録音を行う旨」、「発言者が誰かわからないような形で研究会で話し合われた内容をサークルHPに公開することがある旨」、「公開前に内容についてメールで確認を取る旨」、「記録・公開されたくない場合は申し出てよい旨」を説明しました。

 前半では、『吃音と恋愛は関係あるか?』をオープンクエスチョンに、一人ずつ、意見を出し合い、ファシリテーターのいんこ(山田)がホワイトボードに、出てきた意見をまとめました。一巡したところで、ファシリテーターのいんこが、ホワイトボードのメモを元に、掘り下げたいトピックを決めて、それについてみんなで話し合いを深めました。

 後半では、まず、いんこが以前に別の当事者研究会で行った「恋愛についての困りごと」を紹介しました。その後、それぞれが、『恋愛に関する困りごと』について、1つずつ、1~2回発表をし、その感想をシェアをしました。

 最後に、「話し合いたいテーマ」ということで、「言い換え」について話し合いを行い、また、会全体の感想を共有しました。

 以下の本報告文は、①当日録音した音源と、②ホワイトボードに書いた内容、③PCで取ったメモ、の3つをもとに、山田(いんこ)が作成し、参加者の了承を得て、文字お越しした後、発言者によって大幅に加筆・修正を行い、公開しているものです。

 なお、今回の報告文は、座談会風に、演劇仕立てに、「せりふ」のように再現してみましたが、「完全な文字お越し」ではありませんので、ご了承ください(たとえば、吃音症状は消してあります)。

1-1.オープンクエスチョン『吃音と恋愛は関係あるか?』

いんこ まずは、『吃音と恋愛は関係あるか』をテーマに、一人ずつ話していこうと思います。Aさん、いかがですか。

Aさん 僕は、吃音と恋愛に関係は「ある」とは思います。自分が好きになった女性がいて、そこから、「告白」とかになるじゃないですか。告白するかしないかの一番の壁になると思うので。吃音は。

いんこ 告白するときに、一番、吃音が影響する?

Aさん それもそうですけど、むしろ、「告白以降」ですかね。もしもOKだとしても、付き合い始めてから、吃音があると「変じゃん」みたいに、後で言われてしまうのが怖いんです。それが怖くて、「告白すること自体も臆病になってしまう」というような感じです。

いんこ 「告白するときに吃音が出るかどうかが問題になる」と言うことだけではなくて、「告白したあとの付き合ってからのことの不安が大きいから、告白を躊躇する」と言うことですね。ありがとうございます。Bさんいかがですか。

Bさん 僕は「あるとも言えるし、ないとも言える」ですね。吃音に限らず、あらゆる障害は、恋愛に関係すると思うので、そういう意味では「あるとも言える」と思います。でも、吃音だけが、恋愛に関係するということはない。だから、そういう意味では「ないとも言える」と思います。

いんこ なるほど。面白い考え方ですね。

Bさん 恋愛においては相手との距離感をはかることが、とても大事ですよね。その距離感は近すぎても遠すぎてもうまくいかないと思います。その距離感をとる時に、言葉はとても重要な要素になると思います。言葉が、相手との距離感を媒介するので、言葉の障害である吃音は、関係しうると思います。

いんこ Bさん、ありがとうございます。Cさん、いかがですか。

Cさん 「ある」と思います。恋愛は、コミュニケーションの問題ですが、恋愛においては、「信頼されあう」関係性が重要なのではないかと思います。でも、吃音があると「頼りがいが無い」というように思われてしまいがちになってしまいますから。だから、「ある」と思うんですよね。

いんこ 吃音があると、「信頼されにくい」。恋愛においては信頼されあう関係が重要なので、吃音は恋愛に影響を与える、ということですね。さっきの、Bさんの「距離感」ともつながりそうな話かもしれませんね。ありがとうございます。Dさん、いかがですか。

Dさん 僕は、「あるけど、それは、だんだん、時間が経てばなくなっていく」と思います。

いんこ 面白いですね。新しい意見ですね。

Dさん 恋愛においては、第一印象が、とっても重要だと思うんですよ。たとえば、最初に会った時に、どもってしまったとしますね。そういう時に、いろんな人がいる中で、「ああ、この人は、吃音の●●さんだ」というように、相手に印象が強くつくと思うんです。「その印象を持った上で付きあってくれる人がどのくらいいるか」という問題もあると思うんですけれども、それは取りあえず置いておきます。

一方で、だんだん、仲が深まっていくにつれて、吃音と言うものが、第一人格ではなくなると言うか、より内面を見つめあえるような関係になると思うんですね。そうなると、「吃音の意味」が薄れていくのかな、と思います。

いんこ なるほど。恋愛において、最初、吃音は関係しうるだろうけど、仲が深まるにつれて、それは問題ではなくなる、ということですね。

Dさん ただ、吃音に対して、自分の中である程度折り合いを付けていないと、相手が吃音についてどう思っていたとしても、「ああ、やっぱり、相手の人は、本質的には吃音のことについてわかっていないんだな」っていう思いは、どこか抱え込んでしまう。そういうことは、残ると思いますね。

いんこ なるほど。仲が深まっても、「吃音の孤独について相手にはわかってもらえない」という思いは、残りうる問題なので、そこに折り合いを付けていないとつらいだろう、ということですね。ありがとうございます。

 ファシリテーターですが、僕もお話しますね。僕は「あるけど、よくわからない」という感じです。励ましの言葉で、「吃っていても、結婚できる人はたくさんいる。だから、吃音と恋愛は、関係ないよ」という言説もありますが、それについては、「いやいや、そうはいっても、吃音が恋愛に影響することは絶対にあるだろう」って、僕、思うんですね。でも、一方で、「あることは間違いないだろうけど、でも、どう関係しているのかイマイチよくわからない」っていう感じもするんです。「相手がどういう印象を持つのか」って、当事者じゃない僕らにはどこまでいってもよくわからないし、僕も当事者ではあるけれど、「どもることが、恋愛する僕にどういう意味を持つのか」ということについて、意外と、よくわかっていないような気がするんです。

 たとえば、告白するとき、僕もAさんとは違う躊躇の仕方かもしれないのですが、躊躇することはあるんです。その「躊躇」は、吃音と完全に独立だとは思えないけれども、でも、じゃあ、どう関係しているのかって、よくわからない。たとえば、躊躇するからどもるのか、どもるから躊躇するのか、みたいなことも、よくわからないんですね。だから、恋愛について考えれば考えるほど、いったい、その中で吃音がどう作用をしているのか、よくわからなくなってしまう、というような感じがします。

1-2.掘り下げ 

いんこ みなさん、ありがとうございます。僕の独断になってしまいますが、次は、今出てきた話題の中から、僕が話し合ってみたいテーマについて、「掘り下げ」をしてみたいと思います。

 今、出てきた話の中で、Bさんの「距離感」というキーワードが面白いと思いました。これは、Cさんの「信頼されにくい」というお話にもつながるような気がしますし、Dさんの「仲が深まるにつれて吃音の問題が関係なくなる」というお話などともつながりそうです。なので、まずは、このテーマを掘り下げてみたいと思います。

 Bさんは、先ほど「距離感」と言ってくださいましたね。距離感は近づきすぎても共依存のような関係になってしまうし、遠すぎても恋愛に発展しない、ということなのかな、と思って聞いていました。その「近すぎもせず遠すぎもしない距離を保つことの難しさ」と、「吃音の経験」は、どう関係するんでしょう。Bさん、いかがですか。

Bさん まず、これは言論活動の可能性や人間存在の複数性に関する考察においてアレントが述べていることでもあるのですが、言葉が成立するには二つの問題が内在していると私は感じております。一つは、「他人と自分が異なる」という問題。もう一つが、「他人と自分が同じ立場である」、という問題です。

 そもそも、異なっていなければ、人は、誰かに話しかけようとは思わない。一方で、他人と自分が平等でなければ一方的な対話になってしまう。だから、「他人と自分が異なる」ということと「他人と自分が同じ立場である」という両方が成り立っていないと、「言葉を発する」ことができません。

 しかし、吃音があると、吃音以外の障害でもそうだと思いますが、人々が前提としている「自然なもの」について、敏感に感じてしまいます。感じるとつらくなり、自分の中でのバランスが崩れる。たとえば、「自分の言葉に相手がどう思うのか」を必要以上に考えてしまいます。あるいは、もっと単純に、自分の言ったことについて相手から異なる捉え方をされる、というようなこともあります。そういうようなことが起きると、先に述べた二つの前提が壊されてしまいかねません。「言葉を発する」ために必要な場の条件が崩されてしまうので、自分の中にある沈殿している思いがうまく上がってこなくなります。

いんこ なるほど。ありがとうございます。Dさん、いかがですか。Bさんの今のお話を聞いて、思ったことや、それ以外のことで思いついたことなど、ありませんか。

Dさん 今のBさんの発言とちょっと異なる意見になるかもしれませんが、「言葉だけがコミュニケーションではない」と僕は思うんですね。さっきのBさんがおっしゃった「自分と他人が異なる」ということと、「自分と他人が同じ立場である」という2点ということで言えば、「他人と同じ」ということについて、吃音がマイナスに働くとは自分には思えないんです。ただ、「吃音があって、キモチワルイ」とか、「吃音が合って、会話が成立しにくい」ということは、あると思いますが。

 でも、関係が深まる中で、それは越えることができて、その時に、一種の「安心感」を持って吃音を見ることができるようになると思うんです。「吃音を持っているからより人の痛みがわかる」とか「吃音を持っているから普通の人のような『ノリ』で接してない、そういう意味でありがたい一種の『フィルター』のようなものとして吃音が働く」というようなことも、あると思うんですね。

 そういう中で、「吃音者自身が状況を受け入れて相手とどう深く付き合うか」という問題になると思います。「本当はそうじゃない」「他人が見ている見た目と、自分が感じている吃音とには差がある」「どんなに深い仲になっても、相手は、僕の吃音を本当にはわかっていなくて、そのわからなさには、踏み込めてくれないんだ」というような気持ちは、いつまでも残ると思いますので。

いんこ なるほど。ありがとうございます。「安心感」というのは、一つのキーワードになるかもしれませんね。

 Bさん、Dさん、それぞれのお話しに僕の中で思い当たる節がありましたので、ちょっと僕もお話させてください。今年、『みんなの当事者研究』の本の原稿の中で、「『当事者が感じている〈内側からの吃音〉』と『周りの人が見た目から判断する〈外側からの吃音〉』とは、ぜんぜん違うものなんだ」ということを、書いたんですね。Dさんの言葉でいえば、「本当はそうじゃないんだ」っていうのを、とても強調して書いたんです。僕が当事者研究を続けている一つの大きな動機は、その「そうじゃないんだ」の「ギャップ」を「言葉で埋めること」だと思っています。でも、それって、どんなに当事者研究でそのギャップを言葉で埋めても、「多分、当事者ではない相手からは本当のところはわかってもらえないんだろうな」って当たり前のことですが、今、Dさんのお話を伺って、思いました。

 話を元に戻しますが、Dさんが前半で言った「吃音があって、キモチワルイ」という「第一印象」のお話とか「吃音があって、会話が成立しにくい」というのは、Bさんの言った「自分の中でのバランスが崩れる」という話に近いのかなあ、と思いながら、うかがっていました。Dさん、いかがでしょうか。

Dさん そうですね。第1印象がそこからだと、私も、だいたい、その先までいかないというのが、多いですね。

いんこ Bさんの話にのせて、Dさんの話を考えると、「他人と自分が違う」「他人と自分が平等である」というバランスが崩れるきっかけの一つが、「第一印象」とか「わかってくれない」ということかな、と思います。でも、その「こじれ」がうまく回ってくれれば、Dさんのいう「安心」までいけると思われる。「崩れたバランス」を「安心」のステップまでもっていくには、どうすればいいんでしょうかね。

 「バランスが崩れていく」って、どういう状態でしょうか。

Bさん 自分にとって本質じゃないのに、それが社会的な見方の中で、相手からはそこを本質として扱われてしまう。その時に、他人の視線に囲われてしまって、そこから逃れられない。その法則性をくずしかないのだけれど、そこから入られてしまうと、何か自分のイメージが固定されてしまう、というか、その他人からのイメージを覆しにくい。そういう事態が徐々に、徐々に、進行して、他人の視線に自分も完全に包摂されてしまい、それを覆すための言葉を発することができなくなり、自分が消えてしまうような感じになってしまう。そういう感じです。

いんこ 面白い。まるで不条理劇のドラマツルギーみたいですね。スティグマの話とも関係すると思いますが、僕も、吃音で追い詰められるときの感じって、そんな風に、「徐々に、徐々に、言語化できないような形で、相手からの眼差しに追い詰められていって、気がついたら、何もできなくなってしまう」感じです。すごく、わかるような気がします。最後に、「自分が消えてしまう」という表現は、とっても、インパクトがあるというか、心に響きました。

 Cさん、いかがですか。今までの話に関連することでも、ずれたことでもいいですが。

Cさん そうですね。ちょっと、話が難しくて。吃音があってもなくても、自分のいいところ、「魅力」を引き出せば、それなりに、うまくいくと思うので、そんなに難しく考えなくても、大丈夫なんじゃないのかな、っていう気もするんですが。

いんこ ありがとうございます。そうですね。たしかに。ちょっと、抽象的と言うか、過剰に一般化された話になってしまったかもしれませんね。

 でも、今のCさんのお話を、Bさんと関連付けてみると、「他のところの魅力を引き出す」というのは、Bさんの「徐々に眼差しに追い詰められる」から逃れるための一つの方法と言えるかもしれませんね。「吃音以外の部分で勝負する」って言うのは、「吃音は本質じゃない」と言う風に相手に気づかせる方法の一つと言えるような気がします。今回の研究会、「吃音と恋愛について」という風に設定してしまいましたが、これをテーマにしたこの会自体の妥当性を疑ったほうがいいかもしれません。

 Aさん、いかがでしょうか。今までの話に関連することでも、ずれたことでもいいですが。

Aさん みなさんの、お話を伺っていて、とてもいろいろと考えさせられました。

 まず、Dさんが、「吃音を越えたときに安心する」とおっしゃってくださいましたが、「すごいわかるな」と思いました。僕、よく、家族から「いい友達が多いよね」って言われるんです。それは、たまたまではなく、「どもっても、待ってくれる友達を自分が自然に作るようになった」という感じがあるんですね。僕の周りの人たちは、話をゆっくり聞いてくれたりとか、どもっても待ってくれたりとか、そういう友人が多いんです。それは、Dさんの言葉を借りると、「安心を獲得している」ということなんだな、と思いました。

 Bさんの「自分の本質で無い部分」ということでいうと、僕の言葉で言い換えると、「本当の自分」と「他人が吃音だけを見て作り上げた自分」と二つがいるということだと思うんですね。「本当はこうなのに」と、「他人からの自分」の、二つが自分の中で戦うときというか、そのギャップが一番つらいな、と感じます。

 具体例を挙げるなら、自分としては、「ふざけたい」とか、「陽気に振舞いたい」という気分だったりするじゃないですか。でも、そこで吃ってしまうと、「緊張している」とか思われてしまう。Bさんがおっしゃいましたが、自分としてはそういうつもりじゃないのに、一度、そういう「緊張して堅い人なんだな」というイメージが決まってしまうと、自分でそのイメージを変えることは難しい。そうすると、「それを変えることができない自分への憤り」も出てくるし、「なんでそういう物差しでしか見ないんだよ、という他人への憤り」も生まれます。

 でも、Cさんがいったみたいに、そんなに悲観せずに、良い一面を見せるのも、「そうだな」って思いました。意外な一面を見せたときに、他人も自分に興味を持ってくれる、というか、いいギャップとして、「そういうところもあるんだな」みたいな、感じで。そこはプラスになるかもしれないな、と思いました。吃音を持っているから、意外性を生み出しやすいチャンスもあるかも、というか。

いんこ Aさん、ありがとうございます。僕も、ちょっとお話しますね。

 僕も、「本当はこうなのに」という思いと、「他人から見られる自分」のギャップで苦しむのって、すごくよくわかります。でも、一般的にはこういう状態って「自意識過剰だ」とか「ナルシズムだ」とか揶揄されてしまう状態だと思うんですね。「そこは受け入れなさいよ」というのが「人とコミュニケーションする上での正しい戦術」として諭されることが多いような気がします。

 でも、吃音を持つ僕としては、吃音者が、「そうじゃないんだ」「なんでそうにしか見れないんだ」という思いを持つのは、至極正当であるように感じます。吃音って、場面依存性や流動性のある不安定な障害ですが、「自分の吃音の出やすさが何によって変わるか」あるいは、「自分が、何によって話せるようになったり話せなくなってしまうのか」を完全に把握するのって、当事者であっても、とても難しいと思うんですね。それは、言語症状の重さとは、あまり関係がないような気もします。少しでもドラマツルギーが変化すれば、追い詰められてしまって「消えてしまいそうになる」ことはいつでも起こりえると思うんですが、そうなると、「うまく話したい」ですとか、 「本当は話せるのに」という思いが生じてくるのはしょうがないと思うんですね。それを「自己受容できていないわね」みたいに、批判しようとする言説には、個人的には徹底的に抵抗したいんです。客観的に見れば、それは「自己受容ができていないこじらせ」なのかもしれないし、「キモチワルイこと」なのかもしれませんが。

 ありがとうございます。みなさん、本当に、面白かったです。前半はここで一旦、お終いにしましょう。ちょっと休憩を挟んで、後半は、もっと具体的な体験談を共有していこうと思います。

2-1. いんこ(山田)の『恋愛のこじらせ(困りごと)』の発表

※休憩の間に、Bさんが、用事のため、退場。代わりにEさんが、到着する。

いんこ 僕、先月、駒場祭で、『こじらせ東大生の恋愛相談会』というイベントに関わりました。その時、運営メンバーで『恋愛のこじらせ』というテーマで、メンバーが抱える困りごとをいくつか書き出してシェアする、という当事者研究会をやりました。その時に、僕が書き出した「恋愛の困りごと」を皆さんに紹介したいと思います。どうしてかと言うと、書いている時は、ぜんぜん、吃音のことなんて念頭においていなかったんですが、恋愛の困りごとを書けば書くほど、「どうも、これは吃音の体験と関係していそうだぞ」と気づき始めたことが多かったのです。ちょっと読んでみますね。

※当日の会では、以下のうち、①と②を発表しましたが、本報告文では、当日発表しなかった「こじらせ」も含め、以前に私が書いた「こじらせ」を掲載します。

①嫌われるのが怖くて、近づけません

 女性の前で、性的な話題を振ることができず、「いい人」で終わってしまいます。というか、そもそも、男女限らず、相手との距離を縮めたり、親しげに話すことが苦手です。普段から、人を信じることができないので、嫌われないようなコミュニケーションばかりとりがちになります。好意があることを伝えるのは、嫌われるリスクを伴うような気がすることなので、相手との距離を縮めるためのアクションがなかなか取れません。』

 これは、これだけ読んでも吃音とは関係しているようには見えませんが、でも、僕の場合、これは、「吃音の制御」あるいは「吃音の付き合い方」と関連している話だと思うんですね。前半でBさんが仰った「距離感」の話とも関係すると思いますが。僕の場合、半ば無意識的に、半ば自動的に、「とりあえずその場で話す」ために、自分の中で、「その場において言葉を発することができる身体や声の出し方の型」を自分の中で「さっ」と作ってしまい、そのことが、本来望んでいたような相手との関係性に自分を位置づけるのを難しくさせている、つまり、「話してしまうことが、別のコミュニケーションの不全感をもたらしている」という問題なんです。前半のBさんの言葉を借りれば、「自分が消えてしまう感じ」になるのが、怖いために、とりあえずの、浅いレベルでのコミュニケーションを取りがちになる、ということかもしれません。

 こういう話は、当事者研究で言語化するまで、「よくわからないけど、そうなってしまう」というような感じだったんです。伊藤亜紗さんとの去年のインタビューで、「二重スパイ」ということをお話しましたが、「いつから私がスパイであり、どの様にしてスパイであり続けたのか私は知りません。どこで私がスパイとなり、どの道をたどって今ここにスパイであるのか私は知りません。何故私がスパイとなり何のために今尚スパイであるのか私は知りません。しかし、突如として現在、私はスパイであります。悔はありません。」(別役実『スパイものがたり』)みたいに、「自分でもどうしてそんな風にする(演じる)のかわからなくなってしまうのだけれども、そうしてしまう(演じてしまう)し、さらにやっかいなことには、そのことにさえある種の有意味性を見出しながら生きてきてた」というような状態でして、そこだけ取りだすと、とても正気の沙汰ではないのですが、「元をたどっていくと、どうやらそれは、吃音との付き合い方の影響らしいぞ」、というようなことに、気が付きました。それを知った上で、どう変わるか。あるいは、変えられないのか。何に有意味性を見出すのか、見出さないのか。そういう話は、また別の問題だと思いますが。

『②どうすればいいのか、大体わかっているのにできない

 相手との関係性を縮めるために、およそ「こうすれば、きっと相手の女の子は喜んでくれる」とか、「こうすれば好意を抱いてくれるかもしれない」といような予想が立っていて、なおかつその子との関係性を縮めたいと思っているのに、それができないことがあります。

 そうした動作を行おうとする寸前になって、うまく身体が動かなかったり、言葉が出なかったり、タイミングを逃してしまううちに、「別のタイミングでやったほうがいいのではないか」とか、「最初はこうすれば相手は喜んでくれるはずだと思っていたけれど、もしかしたら、相手は違うことを望んでいるのかもしれない」とか色々と考え出してしまい、そうした行為を行うことと断念してしまうことがよくあります。

 これは、恋愛一般というよりも、コミュニケーション全般でそうしたことが起きているような気がします。本当はどう振舞えばいいのかわかっているのに、それができず、結果として、「鈍感な人」とか、「気がきかない人」とか、「私の気持ちを察してくれない人」のように、相手から思われてしまいます。どうしたらいいでしょうか。』

 これは、もう、ダイレクトに、吃音と関係していると思います。文中の「うまく言葉が出なかったり」というのは、まさに吃音のことですし、「タイミングを逃してしまう」というのも、吃音と関係します。

 前に、当事者研究会に参加してくれたある人が、「吃音で困っているときって、小学生の大縄跳びで、縄の中に入れない時の感じと、似ている」という面白い比喩を使ってくれました。他のクラスのみんなは、ぴょんぴょん、大縄と飛んでいくのに、自分の番になったら、怖くて縄の中に入れなくて、つまってしまう。パンパン縄が地面を打つたびに、プレッシャーが高まるし、もう飛び越えてしまったみんなも、後ろで飛ぶのを待っているみんなも、縄を回している人からも、いっせいに注目されてしまう。吃音で立ち往生しているときの感じって、その時の感じととてもよく似ている。

 ターンテイクの困難さの問題は、聴覚障害の人たちや一部の発達障害の人たちが抱える問題とも通底する部分があるかもしれませんが、『吃音とは、発話に関する内的タイミングの障害である』という説明の仕方(ナラティブ)は、今の僕にとって、わりと説得力のある説明の仕方です。当事者ではない人からは、「たかがタイミング」「たかがターンテイク」と思われてしまうかもしれませんが、それによって、「まあ、いいか」と話すことを断念してしまったり、「あ、この人、あきらめちゃった」とか「不誠実な人だ」とか思われてしまったりするようなことが、当事者・非当事者の意識下・無意識下で、進行しているとしたら、そういうことを重ね続けてしまうことが長期的にもたらす「よくわからないコミュニケーションの不全感」は、とても大きいように思います。

③話し方を切り替えるのが下手

 相手との関係性を縮めたいと思い、いきなり、親しげな話し方をしたら、嫌われてしまいました。普段から、基本的に丁寧語を使って話しているので、親しげに誰かと話すことに慣れていません。小学生の頃から、高校生くらいまで、同級生のことを、基本的に『君づけ』『さんづけ』でしか呼んだことがありませんでしたし、放課後誰かと遊んだりすることもほぼありませんでした。

 同一の人と、関係を縮めるためには、話し方を使い分けたり、変えていかなければいけないと思うのですが、それがとても難しいのです。それが異性だとなおさらです。どうしたらいいでしょうか。』

 これは、「話し言葉の種類を切り分けるのが難しい」という問題ですね。①と似ていますが。やはり、僕の場合、話し言葉の種類によって、吃音の出やすさとか話しかけやすさが変わるので、書き出してみるまでは気づけませんでしたが、これも吃音と関わっているお話だと思います。

④結局、何もできない。

 その人が自分についてどう思っているのかという確証が持てないと、相手との距離を縮めるためのアクションがもてません。また、ほぼ、確証があったとしても、本当かどうか疑い始めて、やっぱり何もできません。どうしたらいいでしょうか。』

 これは、あまり吃音とは関係なさそうですが、ですが、まあ、これも、①とか③の『距離感の難しさ』の話と、関係しそうな話です。

 以上です。吃音と結構関係していそうな「こじらせ」も、あんまり関係なさそうな「こじらせ」もありましたが、こんな風に、今日の後半でも、特に、「吃音と恋愛」と言うことは考えないで、純粋に、「恋愛の困りごと」というテーマで、「Yahoo!知恵袋」に投稿するようなかたちで、いくつか、「困りごと」を、みんなで書いて発表していきたいと思うんですね。これでも、やや具体性に欠けているといえば欠けていますが、前半よりは具体的な悩み事を共有できるような気がします。

 というわけで、今から、15分くらい、時間を取って、「恋愛の困りごと」についてそれぞれ、いくつか書き出してみようと思います。もしかしたら、そこから「吃音」が見えてくるかもしれません。もちろん、見えてこないかもしれませんが。ひとりひとり、いくつか、「恋愛に関して困っていること」をテーマに書き出して、後で、発表していきましょう。

※15分ほど、書き出す時間。

2-2.みんなの「恋愛の困りごと」

●「恋人」って何だ?

いんこ 何週できるかわかりませんが、一人一個ずつ、「恋愛の困りごと(こじらせ)」を発表していきましょう。まずは、僕からです。これも、先日の当事者研究会で書いたことですが、読み上げますね。

『恋人を作るとはどういうことかわかりません

 恋人を作ることが、どういうことなのか、わかりません。

 恋人をちゃんと作ったことは無いのですが、「恋人である」という関係性がどのようなものを指すのか、イメージができません。

 たとえば、一緒に美術館に行くとか、どこかイベントに良くとかなら、仲のいい友達とだったら、別に恋人ではなくても、することができます。

 また、好きでもなく、恋人でもない相手と、セックスしたりすることも今ではそんなに珍しいことではないような気がします。だったら、セックスをすることが恋人であるということの証ではないような気がします。

 また、特別な秘密をその人と共有することで、特別な関係性であることを確かめ合うということについても、ぴんときません。多分、彼女ができたとして、親しい友達にはするけど彼女にはできない話しは多分あるでしょう。恥ずかしいところとか、弱い部分とかでも話し合える関係性、ということでしたら、当事者研究会のような場でも、僕はできます。

 「私はあなたのことが好きだ」と告白しても、別に好きでもない人に「好き」だと言うことは簡単にできますし、実際、そういうことをしている人はたくさんいるような気がします。

 「恋人である」というからには、なんらかの「メリハリ」、つまり、その人としかしないような関係の仕方があると思うのですが、そうした関係性がいったいどういうことなのか、よくわかりません。』

 あんまり吃音と関係ないかもしれませんが、でも、どこかで関係しているような気もします。いかがでしょうか。

●「親友」って何だ?

Dさん あ、それ。私もそれに近いです。「そもそも恋愛しているのかがよくわからない」っていう感覚が、私にもあります。

 「一方的に好きな人」は、私にも確かにいるんですよ。でも、だからといって「相手にそのことを伝えたい」というわけではないから、それは「片思い」でしかないんですよね。

 一方で、それほどではないが、親しくしていて、それが恋愛関係なのか、友人関係なのか自分でもよくわかっていない、という人もいます。その人と関係を持ちたいかと言うと、「まんざらでもない」が、「口に出して、それを言うのははばかられる」というか。

いんこ 「友達なの?」みたいな、感じですかね。

Dさん 友達って言うのも色々あるじゃないですか。たまに二人で飯を食うような人は、「友達」の一種だと思うのだけど。でも、それ以上に何か、秘密を共有したりとか、世間で言う「親友」みたいな関係性って、自分の中ではいらないかな、という感じなんです。そこまでの「親友」って、それはちょっと、自分の中では「キモチワルイ」ような気がします。「親友って必要なんですか」っていうか、「親友って何なんだ」みたいな感じなんですね。他人は他人だし。

いんこ いわゆる「パリピ」の人たちについてはどう思われますか?別に腹を割った心からの関係性というわけでは必ずしもないのに、表面的にはうまくやれる、というな感じだと思うのですが。

Dさん いえ、あれはある意味でわかるんです。あれは表面的な付き合いじゃないですか。表面的な付き合いは割とできるんです。私も。先日、ある人に、「お前、親友は少なくても良いから、作った方がいいぜ」って言われて。でも、「じゃあ親友って何なのか」とその人に言ったら、「何でも打ち明けられるヤツのことだよ」、と言われたんですね。でも、私としては、「そんなものは作れねえよ」っていう感じなんです。

●結婚したい

いんこ Cさん、いかがですか。

Cさん まず、自分は、30半ばなんですけど、やっぱり、今の自分にとっての一番根っこにあるのは、「結婚」なんですよね。でも、自分の場合は、自分の所得とか、年収とか、そういうところを考えてしまうと、積極的に出れないことがあって、そこがいちばん、恋愛の問題としてあります。やっぱり、仕事ができないと、恋愛もできないと言う。そういうことも、難しいところです。

今まで、恋愛経験はしたことなくて、異性の友達もいたことも、まあ、ないんですね。学生のときに、恋とかもなかったですし、人付き合いとかもちょっと苦手だったので。その辺も影響しているのかな、という気がしています。恋愛って、まずは、コミュニケーションの問題なので。

いんこ 30代になると結婚を意識されますか。

Cさん そうですね。街コンとかにも以前は、よく行っていました。最近は、行っていないですけど、一時は参加していました。

●どもっているのを「引かれてしまう」

いんこ Eさん、いかがですか。

Eさん 先日、女性の方と二人で食事に行っていたんです。その時に、吃音の症状がひどくて、向こうの女性も、なんというか、少し「引いていた」ような感じがしました。会話がぜんぜん盛り上がらなくて、僕が吃っている時、向こうの女性が真顔で、僕の顔を見てくるんです。僕としては、「笑ってくれた方がまだましだ」という思いだったんです。笑ってくれれば、こっちも「こういうのがあってね」っていう風に、吃音について説明しやすいですから。「真顔」っていうのは、ちょっと、ショックだったんですよね。「こういう時はどうすれば良かったのかな」って、最近ずっと考えているんです。先に吃音のことを打ち明けるた方がいいのかな、とか。

いんこ 吃音あるあるですよね。

Aさん Eさんのお話を伺っていて、僕にも思い当たる節がありました。喋っていて、詰まってしまったりした時、「どうした」みたいな感じになるときってあるんです。でも、僕には、「自分の好きな相手だからこそ、吃音だって言いたくない」って言う思いも、あるんです。「それで、関係が終わってしまうのではないか」というか。だから、そのことが怖くて、最初にその人と深い関係に入れないんです。ある程度、長い期間、関係することができて、自分も安心して、「もう、吃音のことを言っても大丈夫」と認めてくれる「安心感」がないと、僕には、距離を縮めるのが難しいんですよね。別に、「好きでもない相手」とか、「友達じゃない相手」とかなら、最初に「吃音って言って、こういうのがあるんだけどね」って気軽に前置きできるんですけど。

いんこ ありがとうございます。ちょっとこのお話、掘り下げてみましょうか。

「真顔がつらい」って、僕にもそういう経験があるので、「わかるなあ!」っていう感じがとてもします。ただ、一方で、聞き手の態度として「じゃあ何が正解なんだろう」っていうことも、当事者ですが、「よくわからない」、という風に思ってしまうことも、あるんですね。なんていうか、「どんな態度でこれられても、不自然」と言うか。その場に居たわけじゃないからわからないですが、もしかしたら、「その人にも悪気はないんだろうな」という感じも、聞いていて思ったんです。さっき、「どもるも素敵よ」に対して「悪気はないとわかっているけどその人のことを嫌いになる」と言いましたが、向こうは向こうで、「どう接すれば正解なのかわからない」みたいなことを考えてしまって、その人が出した一つの答えとして、「真顔」という対応をその人も取らざるを得なかったのかなあ、というようにも感じることも多いのですが。

Eさん それも、確かにありますが、僕が経験したときの場合、引いているのが、とっても「あからさま」だったんですね。僕が一生懸命話しているのに、携帯を触ったり、そういうのがあったので。

いんこ ああー、それは、たしかに、嫌ですね。

Eさん なんだか、こっちに原因があるというか、こっちが悪いみたいにされてしまうと、僕もそれを否定できないし、だから、なんていうか、上手く言えませんが、つらかったです。

いんこ 吃音と恋愛、あるいは、恋愛に限らず、吃音を持っている人とそうではない人との間で、一般的に起こりがちなことだな、と思いました。

●恋愛って、就活みたい

Dさん 今の、EさんとAさんのお話を伺っていて、「恋愛って、就活みたいだな」って気がしました。恋愛を比喩として使うと、たとえば、「バイト決める」みたいな感覚で、「セックスまでいっちゃう」みたいな人っていますよね。「正社員になるのを前提にしないと就活を始めることができない」というようなことって、「結婚を念頭に置かないと、関係を始められない」みたいなこととも近いかなあ、って。

いんこ 両方とも「マッチング」の問題ですものね。

Dさん ええ。「恋愛」って「普通の友人関係」っていうのとは、ちょっと違う。それは、普通のアルバイトと正社員とかが違うというのとも似ています。吃音の人にとっては、就活も、恋愛も、一つ、大きなハードルなんだろうなって思います。

Eさん たしかに、先ほど、Aさんが吃音のことをカミングアウトするか、っていう話がありましたが、それって、「就活で吃音をカミングアウトするか」っていう話と似てますよね。

いんこ おもしろいですね。今まで、「吃音と恋愛」というと、「どもっても大丈夫だよ」みたいな「励まし」で終わるか、もしくは、「吃音と恋愛は全然別のことだ」みたいな話で終わることが多かったような気がするんですね。でも、就活も、恋愛も、結婚も、子育ても、どれも誰にとってもとても大きな問題であるはずなのに、学校でも、それ以外の場所でも、誰もちゃんと教えてくれないじゃないですか。自助グループでも、あまり、真正面から誰もちゃんと取り上げられることがなかったような気がします。でも、恋愛って、きっと、就職活動と同じくらいか、それ以上に、大変ですよね。僕も、吃音と関連して、そのどちらについても悩んで、そして、そのどっちからも逃げて、26歳になってしまったような気がします。

●告白した後のことが不安

いんこ Aさん、いかがですか。

Aさん 前半で言ったことでもあるんですが、僕の場合、告白それ自体は簡単だと思うんですが、その後の関係とか過程を想像したりすると、躊躇してしまう、というのが、一番の問題ですね。恋愛と言うよりも、「恋愛の前の段階の話」という話なのかもしれません。告白自体は、「好き」って言うだけなので、それで付き合っていけばそれでいいというだけなので、それはまあ、さっと言えたとしても、それはそれでいいと思うんです。それよりも、なんかその、向こうが持っている想像と、「この人ぜんぜん違うじゃん」みたいに思われる、そのギャップを思われるのがとても嫌で、だから、告白を躊躇していた、というのが、自分には、あります。

いんこ さっきもお伺いして面白いな、と思ったのは、「吃るから告白しない」というよりも、「告白した後のことを考えて躊躇する」ということなんですね。

Eさん そうですね。そっちなんですよ。それと、吃音とは直接関係のないところで言うと、「彼氏いるの?」とか、そういうタイミングをとることの難しさとか。あと、前半にも少し言いましたが、やっぱり、話し方から「まじめ」って思われているから、最初は、まじめな話がおおくなりがちで、打ち解けるまでに時間がかかってしまう、みたいなこともあります。自分でも気をつけてはいるんですが、でも、しょうがないっていうか。やっぱりちょっとかたくなりがちで、というのが、ありますね。

●吃音と人格、メタ・コミュニケーション

いんこ ありがとうございます。今のお話を聞いて、僕の中で思いついたことを少し、お話させてください。

 さっき、「いい人で終わってしまう」という僕の「こじらせ」と、Eさんの「まじめ」とは、共通する部分が歩きました。また、吃音がドラマツルギーに影響を与え、そのドラマツルギーの中に自分も閉じ込められてしまう、という構造としては、前半でBさんがおっしゃった「自分が消えてしまう」に至る「追い詰められ方」にも通じるような気がします。

 ドラマツルギー、という言葉を先ほどから使っていますが、一昨年から、去年にかけて、東大スタタリングや埼玉言友会で、平田オリザさんの『話し言葉の地図』を引き合いに、当事者研究会(モデル研究会)を開催したんですね。その中で、「対話は割りとできるけれども、会話はむずかしい」という体験談を語る人が、僕も含めて、結構いました。平田オリザさんの定義ですが、対話と言うのは、初対面の人がお互いに自己紹介したり、知っている人同士でも、当事者研究会のように、お互いの考えの違いをすり合わせていく、「情報交換をお互いにすることが目的の話し言葉」です。一方、会話と言うのは、情報交換を目的とするというよりも、知っている人同士が、「親しく話をする」ときの話し言葉です。会話の方が、「無駄話」というくらいなので、内容は無駄なことが多いのですが、実は、冗長率という観点からすると、会話よりも対話の方が、冗長率が高い。吃音を持つ人で、対話のような丁寧な関係性は築けるのだけれども、仲良くなっていくときの「会話」のハードルがとても高い。そういう経験を語る人が僕も含めて多かったです。

Eさん 友達関係とかでも、やっぱり、吃音のことを、カミングアウトしてないので、そこで、壁があったりとか、そういう感覚が自分にあります。そういうのが、友達関係でも、そこまで深い関係と言うか、そこまでいかないことに関わっている気がします。

Dさん 今、思ったんですが、吃音の人の方が、より言葉にとらわれている、というような気がします。吃音者で対話は得意だけど会話は苦手、というお話がありましたが、吃音じゃない人たちの方が、言語によるコミュニケーションよりも、言語によらないコミュニケーション、「以心伝心」を上手く使っている。吃音の人で、自分の言葉の「つたなさ」にとらわれるあまり、「以心伝心」というところに、移行することに困難を感じている人が、多いのではないでしょうか。

Eさん やっぱり、コミュニケーションの目的を、「スムーズにしゃべること」「相手と以心伝心すること」としてしまうと、そこが吃音を持っている人と持っていない人での、考え方の違いになるなのかな、と思います。

Aさん テンポのよさについていけない、とか?

Eさん そうそう。

いんこ それ、すごく面白いですね。上手くいえませんが、それって、「吃音って、吃音の問題だけじゃない」「吃音って、言語的なコミュニケーションの問題と言うよりも、非言語的なコミュニケーションにも問題があるんだ」みたいなことなのかな、と思って伺っていました。もちろん、言語面での問題も軽視してはいけないと思いますが、なんだか、すごく的を射ている考え方だな、と思いました。

 たとえば、吃音の問題が、単純に言語の問題だけであるならば、「どもりながらでも、ちゃんと話せばいい」ですべて解決してしまうような気がするんです。でも、そんな言説だけでは解決しないからこそ、悩んでいる人が多いように見えるし、実際僕も、そういう風に悩んでいるタイプのような感じなんです。既存のパラダイムを使えば、シーアンの氷山仮説みたいに、表の言語面での「見える問題」なんて大したことがなくて、スティグマの問題とか、タイミングの問題とか、ドラマツルギーの問題こそが、問題として大きいように感じるんですよ。

 でも、それが、いったいどういう問題なのか、正確に把握することは、当事者でも難しい。特に、僕は、『話し言葉の地図』の研究会みたいに、吃音の場面依存性や状況依存性について、把握するための当事者研究を進めているのですが、やっぱり、まだ、うまくつかめないような感じがしてしまうんですよね。

●話すこと以外のコミュニケーション

いんこ 今の話の続きで、もう一つ、思い出したことをお話させていただきますね。僕、昔、大嘘を付いたことがあるんです。「僕は、言葉が全く喋れないんだ」みたいに、インターネットで知り合ったある初対面の女性に宣言したんですね。それで、その人と筆談でデートをしたことがありました。今から振り返ると、大嘘だから、相手の女の子には申し訳なさしかなくて、まあ、どんなによく言いつくろっても、僕はただの卑怯者でしかないと思うのですが、ただ、それが、とてもよかったんですね。

 デートする前に、それこそAさんの「告白してから、引かれたらどうしよう」じゃないですけど、吃音が、僕にも相手の女の子ともに、双方が意図しないような形で、二人の関係性に影響を与えてしまうようなことが、嫌だったんです。「どもることがみっともない」というよりは、「話すことばかりにかかりきりになって相手のことを考える余裕がなくなってつい心にもないことをつい言ってしまう」みたいなことを、自分がしてしまうのが、嫌だったんです。でも、「どもるから筆談がしたい」と言うと、「そんな自分を否定するようなこと言わないで」とか、「それは、よくないことなんじゃない」とか、「あなたの声ではなして」みたいに、言われそうな気がしました。そこで、いっそのこと、「声が出ないということにしてしまおう」と思ったんです。それで、そういう「大嘘」を付きました。

 そういうわけで、「筆談デート」を、3回ぐらいしたんですが、その時に気が付いたのは、筆談だと、「ちゃんと読んでくれる」んですね。確かに吃ったとしても、口で話したほうが、明らかに、言語的な情報量は多いんです。特に僕は、元々クラタリング(早口症)も合併していることもありますから。吃音が出ようが、情報量は、あきらかに、筆談よりも口でしゃべる方が、多い。でも、文字で書くと、落ち着いてコミュニケーションができる感じがするんです。「メタ・コミュニケーションにおける定位をつかめる」といってもいいかもしれません。筆談の方が、相手のことを考える余裕も生まれるし、相手も待ってくれるから、待ってる時は、それこそ「安心」なんですよ。

 むしろ、「言葉でしゃべっているとき」よりも、「筆談をしながらやり取りする」方が、普段よりも、とても豊かにできている自分に気がつきました。ジェスチャーによる記号的な表現と言うよりも、相手になんとかわかってもらいたいという感情に突き動かされて、表情とか、身体とかが、自然に大きな表現として現れるんですね。どもりながら話しているときにはそういうことはできなかったので、そっちの方が、「あ、口で話すよりもよっぽど豊かな関係が築づけているな」と思えたんです。

 声が出るくせに筆談をするなんて、本当に声が出なくて悩んでいる障害を持っている人のことを考えると、後ろめたいような気もしました。でも、そんなわけで、その経験は、とっても、僕にとって貴重な経験でした。「声で喋ろう、喋ろう」としていたときの方が、何か「殻」がやぶれないような感覚と言うか、うまくテンポに乗らなくちゃいけないのにうまくのれないしんどさというか、無意識的・自動的な「言い換え」とか、「本当は言いたいことがあるけど、言葉を飲み込んでとりあえずうなづいておく」みたいな反応とか、そういうことをしてしまいがちだったのです。そういうのって、「吃音を受容している、いない」とは関係なく、起きてしまうんですよね。でも、筆談の時は、ぜんぜんそれがなくて、自由にコミュニケーションできたんですよ。

 だから、今は、そういう「代替手段」を「一度使ってみる」というのも、「ありなのかな」って思います。

Aさん さっき、前半でBさんが、文章を書いていた、という話をしていたじゃないですか。僕も会話はそんなに上手くないんですけど、文章を書くと、文は割りと比較的書けるほうなのかなと思っているんですね。「なんでかな」と思って考えたのですが、文字を書くのって時間がかかるから、思考の制御をしながら書くことができるんです。話すことよりも書くことの方が、思考の整理をしながら、書くことができるんです。もともと論理的な話は苦手なんですが、書くことだとそれができているのか。日記とか、レポートとか、エッセイとかを書くのは、僕には、あっているのかもしれません。仕事にもいかす機会があれば、文字を書いたりとか、そういうのも「ありなのかな」と思っています。

いんこ Bさんが自己紹介のときに、メールだと、一方的にたくさん書いてしまう、みたいな話をしていましたよね。僕も、ラインとかだと、一方的にたくさんメッセージを送ってしまうことがあるんです。さっきの筆談の女の子とは別の女の子ですが、あるライン友になった女性から、「お前にはついていけんわ」みたいな感じで、少し前に嫌われてしまいました。ラインだと思いついたことをすぐに書けてしまうから、「相手に自分のことを丸ごと全部わかって欲しい」と思って、たくさん書きすぎてしまうことが多いんです。そういう問題もあるので、今の僕は、同じ「書き言葉」でも、筆談くらいが、ちょうどよく、コミュニケーションができる気がします。

 そういうわけで、同じ書き言葉でも、全然、コミュニケーションの質が変わるな、とその時、すごく感じました。話すのに比べて、筆談って、すごく親密な感じがするんです。筆談は、10文字とか、とても短い言葉でも、とても時間を書けながら、書くので、口で話す以上に、「必要な言葉だけを考えて選びながら書く」という状態でした。メディアによって、コミュニケーションの『質』や、『思考内容』や、自分の『人格』が変わる、ということを、実感しました。筆談をしていたときの、僕の「人格」と、ラインで過剰に言葉を送りつけていた僕の「人格」は、そうしようと意識的に演じ分けていたわけではありませんが、ずいぶん、ちがっていたと思います。先ほどの、「安心感」や、「消えてしまいやすさ」にも、影響を与えると思います。

 同じ「吃音」という身体を持つ人でも、クラタリング(早口症)を合併している吃音者とそうではない人とでは、あるいは同じ人でも難発がひどい時期とそうではない時期とでは、言葉も、コミュニケーションの質も、人格も、そこから生まれる、ドラマツルギーも、安心感へのたどり着きやすさも、消えてしまうような状態への陥りやすさも、本人が制御したり自己決定できる範囲を超えて、違ってきてしまいます。そういう現象は、とても面白いですよね。

●吃音者の「代替手段」について

いんこ 話をまた代替手段の話に戻しますが、僕、8月にイギリスに留学していたんですね。その時に、イギリスでの吃音を持つ人の合理的配慮について書かれた文章を読んだんですよ。「面接のときに長く時間を取る」みたいな配慮も書かれていたのですが、その中に、代替手段を使うことについても、書かれた文章があったんですね。でも、その記述が面白くて、「望ましいことではないが、代替手段もありえる」みたいな書かれ方だったんですね。でも、「望ましくないって何なんだ」って思ったんです。「別にそれでいいじゃないか」、って。さっきも言ったように、僕にとっては、筆談経験って、とても豊かな関係性を築けるコミュニケーションだったので。

 もちろん、普段は、僕も口で話しますし、代替手段を使うことは、人生に5回くらいしか経験していません。それは、第一に、「情報量が限られる」ということもあるし、「コミュニケーションコストも高い」と言うのがありますし、「周囲がそれを受け入れてくれる寛容度がなさそうなことが多いから」ということもあります。

 それから、「自分の身体を否定しているような気がするから」という思いも、どこかにありました。今では、すこしこれについては変化していますが、これは、「身体の境界をどこに引くのか」という問題とも、関係すると思っています。つまり、「吃音とは身体的な問題なのだ」、という風に考えていた時期は、「吃らないようにすることや、治す努力をすることは、自分を否定しているように感じる」という思いが強かったです。これは、多分、「吃音とは自分の中にあるもの」だったと考えていたからだと思います。

 しかし、伊藤亜紗さんとインタビューしてから、「そうとも限らない」という感じがしてきました。伊藤さんは、僕とのインタビューの中で、「吃音が自分じゃなくて環境の方にある」と考えていたのですね。「言葉が制御できなくなるのは快楽」とも言っていましたが、伊藤さんの方が、 「環境が私をどもらせる」というような感じで、吃音について、受動的な感じなんです。それに対して、僕の方が、「吃音がアイデンティティの問題に関わる」「吃音とは実存の問題だ」とかいう風に思っていて、主体的と言うか、能動的な吃音との付き合い方をしているんです。僕が早口症をもっていることとも、どこかで関係するかもしれませんが。

 一方で、僕は舞台の上では吃らないのですが、演技をするときの僕は、マゾヒスティックなんですね。舞台の上での演技というのは、観客や演出家からの強烈な「眼差し」に耐えながら、自分が身に着けた「型」や稽古場での体験を手がかりに、他の役者や環境との相互作用の中で、自分の中から中動態的に湧き上がってくる「行為をしたい感じ」を、行為として結果的に結実させていくものだと思うのです。「『型』によって自分の身体が統制しつつ、ダイナミックに変化する舞台環境の変化の中に、自分を位置づけさせる」という感じといってもいいかもしれません。「うまく統制できているぜ」という感じは、ある種サディスティックかもしれませんが、予測不可能に変化して統制できない環境に対して柔軟に適応していく可塑性には、非常にマゾヒスティックさがあるように思います。

 話を元に戻しますが、そういうわけで、伊藤亜紗さんとお会いしてから、僕がずっと感じてきた、「自分の身体を否定しているような気がするから、代替手段に抵抗感を覚える」という感じは、徐々に消えていきました。

 そういうわけで、僕の中で、「代替手段を使わない理由」は、「情報量が限られること」「コミュニケーションコストが高いこと」「周囲がそれを受け入れてくれる寛容度がなさそうなことが多いこと(その寛容度を変化させるためのコミュニケーションコストもまた高いこと)」という3つの理由が、今のところ大きいです。「寛容度の低さ」には、「身体の境界がどこであるのか」という問題や、「吃ることについての当事者が持つ有意味性」「吃ることについての周りの人たちが抱いている有意味性」、それから、スティグマの問題など、複数の要因が絡んでいますから、丁寧に考えていかなければならないと思います。特に、「吃音の有意味性」は、社会や時代によって、大きく変化すると思います。

 発達障害という概念が広まったことや、色々なマイノリティについての理解が深まっていく中、また、社会が不安定化し、コミュニケーション能力偏重主義の気風が持続していく中で、「吃音を持つ人にも、なにか支援できることがあるんじゃないか」という発想は、特に、言友会の一部の人たちの中では、もう自然なものになりつつあると思います。一方で、これだけメールやラインなどが発達した社会であっても、代替手段を使うなど、「話さない」という選択肢を取っている吃音者はまだまだごく少数です。むしろ、ASDなど他の障害に当事者性を見出している人たちが、発話についての代替手段を積極に使い始めています。

 2017年の吃音者は、僕も含めて、かなり追い詰められてしまうようなドラマツルギー下でも、まだまだ、「無理して話す」という選択肢を取っているように見えます。

 もちろん、僕も、どんなドラマツルギー下でも、「話したくない」わけではなく、どちらかと言うと、どもりながらであったとしても、話すことに欲望や快楽を覚えるドラマツルギーの方が多いです。僕は個人的には運動にはあまり積極的ではないのですが、もしかしたら、「話すことの快楽を手放してまで、話さないための運動をしたくない」とどこかで思っているのかもしれません。

 ただ、もし、これから、社会的支援に向けた「運動」をするのであれば、そうした「代替手段」を使うことも、検討するのもありなのかな、という感じもします。

Dさん うーん、僕は、やっぱり、仮に、言友会とかで、「筆談でお話ししたいです」っていう人が着たら、「めんどくさいな」って思っちゃいますね。

いんこ あー、まあ、たしかに、その気持ちは、わかります。話し手だけじゃなくて、聞き手の方にも、コミュニケーションコストが高まりますよね。

Dさん スムーズに、筆談とか人工音声でコミュニケーションができる人って、人工音声を使っている人も、最初から「自分は、しゃべれないんだ」「自分は人工音声でやるしかコミュニケーションの手段が無いんだ」と思っているから、熟練しているわけですよね?人工音声に。だから、スムーズにできると思うんですよ。でも、吃音の人って、どこかに、「しゃべろうと思えばしゃべれるけれども、でも、仕方なく今はこれを使っているんだ」みたいな思いが、どこかにあるような気がするんです。だから、人工音声を使うようになったとしても、「人工音声だけでやるしかないという人」よりは、熟練度がつたないのかなっていうか。そういうところも、全部見えてしまうような気がするので、「こいつめんどくさいな」と僕も思ってしまうし、思われてしまうような気がするから僕は使いにくいな、って思います。

いんこ あー、そうですね。たしかにそうかもしれませんね。僕が、さっき話した女の子に対して、筆談を使えたのは、「1対1で話す」という関係性で、なおかつ、「相手の女の子が、そういうのに寛容そうな子だった」というのが「読めた」から、というのもありますし、何より「嘘が付けてしまう関係性での出会いだった」というのも、大きいような気がします。普段、それをやろうとしたら、「めんどくさい」と思われるのは、まあ、間違いないでしょうし、それが嫌だから、普段は「筆談でもいいですか」と言いにくい、というのも、あるような気がします。

 だいぶ、話がそれてしまいましたが、もう一巡してみましょうか。

2-3.二巡目

●人を信じられない

いんこ 僕ばかり、長く話していてすいません。これ、今日、みなさんの前で発表して、話し合いたいと思っていた「こじらせ」なんです。書いたとたんに、「ああ、これ、変わらなきゃいかんな」って思ったんですが、書いてみるまで、吃音とどう関係しているか、いまいち、ぼくのなかでつかみきれなかったことなんです。読みますね。

優しくしてくれる人のことを信じることができません

 優しくしてくれる人のことを好きになれません。

 本当にその人のことを「好きだ」と思いながら、その人に「好きだ」といったり、本当にその人のことを考えながら、その人に優しく振舞おうとするとすることが、僕にはとても難しいです。本当にその人のことを思いながら、その人に何かを伝えようとすると、僕は、かなり、どもります。

 逆に僕は、相手のことをあまり考えないように話すと、スラスラと話すことができます。

 だからかもしれませんが、「誰にでも優しい人」や、「誰からも愛される人」や、「よどみなく、人と快活に話せる人」や、「上手に演じ分けてコミュニケーションをとれるすごくいい人」のことを、僕は信じることができません。そういう人を見ると、「きっと、この人には、何かがあるのだ。本当に優しい気持ちで優しく振舞おうとしたら、こんなに上手にコミュニケーションがとれないはずだ。きっと、この人は、何かを無視することで、誰にでも優しくすることができているのだ」と思ってしまいます。

 また、自分に優しく振舞ってくれる人や、自分のことをほめてくれる人のことを、僕は信じることができません。なぜ、その人が僕に優しくしてくれるのか、わからないですし、僕は自分のことをほめられるようなすごい人だと思っていないので、自分のことをほめてくれる人には、やはりきっと、裏に何かがあるのだ、と思ってしまい、信じることができないのです。

 「誰にでも優しく振舞っていた人が、本当はとても怖い人だった」という体験を過去にしてしまったことがあるからかもしれませんが、「人に優しい人は、実は怖い人なんだ」とか、「自分にやさしくしてくれる人は、自分のことを何か道具か人形かなにかのように思っている人なのだ」とかいう風に思ってしまいます。

 また、自分の優しさに感謝してくれる人のことを好きになれません。

 僕は、「誰に対してもとりあえず優しい人格」を演じているときは、あまりどもりません。ワークショップのファシリテーターをやっているときなど、相手のことをどうでもいい人だと考えているときには、僕は人に優しくすることができて、なおかつ、どもらずに話すことができます。

 そういう「本当の自分」ではない「やさしい自分」を演じているとき、つまり、周りの人をどこかバカにしていたり相手の何かについて思考停止しているが故に優しくふるまっているときの自分を見て、自分のことを好きになってくれたり、そうした時の自分の優しい振る舞いや言動に感謝してくれる人に出会うと、僕は、その人のことを「この人は何もわかっちゃいないのだ」と思い、たちまち、その人のことが大嫌いになってしまいます。その人に悪意が無いのはわかっているのに。

 僕に優しくしてくれる人のことを好きになれないし、好きな人には僕は上手に優しくすることができないし、僕の優しさをもってして僕に感謝してくれる人のことを、僕は好きになれません。』

 これは、あまり吃音当事者の体験談として語られてこなかった内容だと思いますが、僕としては、すごく、吃音との付き合い方と関係している問題だと思っています。隠れ吃音者としての僕の困りごと、と言えるかもしれません。

 ただ、さっきも言いましたが、この話は、少し開き直り気味に書いて発表したのですが、発表した途端に、同じ当事者研究会に参加していた、ある女性から「えー。じゃあ、いんこさんには、これから、優しくするのはよそう」と、ドン引きされた目で言われてしまいまして、その時に「はっ」として、「ああ、これ、間違っているな、僕が」と反省しました。反省して、だから、今は、「どうにかして、変えられないもんかな」と思っています。

 話を戻しますが、今も僕、胸の辺りから、声を出しているんですね。おなかから、声を出せていないんです。何かの感覚を遮断して、声を出しているんです。何かを無視している、というか、そうすることによって、割とスムーズに、しゃべれているような感じなんですね。

 こういうことを言うと、「いんこ、お前、今も俺らのことを信じていないんだろ」っていう風に、僕のことを思ってしまうと思うんですが、まあ、とても恥ずかしいですが、そうなんです。

 書きながら、「僕って、すげえ、いやなやつだな」って思ったんですが、みなさん、コメントいだけますか・・・?

Dさん ああー、だから、そういう、「何らかの、意図があって、優しくしている人」って、「なんかわかる」と思うんですよね。「あ、こいつ、意図があるな」って、わかると思うんですよ。でも、「そうじゃない人」っていうのは、「じゃあなんなのか」っていうと、「自分が優しくすることによって、相手からも優しい反応が返ってくることを期待している人」もいると思うんですよ。そういう、「お互い、優しくすることで本心を見せない」みたいな。そういう人って、意外と、いるんじゃないのかなって思って、自分もわりとそのタイプなんだけれども。

いんこ 仲間がいてよかった!そうですね。

Dさん うん。本当に、本音のところでやりあってしまって、次の日から、「絶交みたいになったらどうしよう」って、やっぱり、いつも心の奥底にあるし。そういうのがあるからこそ、やっぱり、「本音のところでは接しきれない」と言うのがあります。

いんこ そういえば、さっき、「親友なんかいらない」って言ってましたね。

Dさん そうそう。

いんこ あー。そっか。でも・・・、僕、とても卑怯なんですけど、僕は結構、「親友が欲しい」って思っちゃう方なんですよね。なんでもかんでも話すことのできる親友。そういうのが欲しくて、自分にとって都合の悪いところとか全てを隠して、安全な場所に身を置いた上で、さっきの女の子とも「筆談でデートした」、みたいなこともあったと思うんですよ。同じように、「なんでもかんでも受け止めて欲しい」みたいに思ってしまって、普段、よほど親しい友人にも話せないような悩みとかを、一方的に、さっきの別の女性にラインで送り続けてしまった、みたいなところもあります。

どうしてそんなことをしてしまったのか、を改めて考えてみると、さっき、Bさんが仰っていた、「本当はそうじゃないんだ」という思いが、元々、とても強かった、というのがあったのかなあ、という気もするんです。「お前はそう勝手に眼差しているかもしれないけど、俺が思っていることは全然そんなことじゃないんだぜ」っていう。それは、吃音の経験が、とても関係していたと思うんですけど、だからこそ、なんていうか。僕が吃音を制御するのは、「どもるのが恥ずかしいから」、とか、「いやだから」というよりは、「そういう眼差しの中に閉じ込められたくない」という思いの方が強いんじゃないかと思うんですね。だって、吃音って、自分にとっても聞き手にとっても、統制のできないことで、そして、人間関係に少なくない影響をよくわからない形で与えるし、しかもそれに影響を受けると、自分が意図しないイメージとか関係性とかドラマツルギーの中に自分自身も相手も閉じ込められかねないわけじゃないですか。別に嫌がらせを受けているわけじゃないのに、ハラスメントで追い詰められてしまう時みたいに、ともすると「不利益な状態に陥っているのに、何もいえなくなっちゃう」ような状態に、すぐになってしまいますからね。

 中学生から高校生にかけて、吃音を制御するための色々なテクニックと身に着けてしまったのは、「本当はそうじゃない、そうじゃない」みたいに、なんとか「イメージに転倒されないようにするため」だったと思うんですけど、逆にそのことが、僕の場合、「優しさを信じられない」という問題をもたらしてしまったと思います。

この間も、ある人から、「結局、君は、いろんな人のことを馬鹿にしているよね」って、言われてしまったのですが、「そうかもしれないな」、ととても反省しました。だから、親友もいないんだなって。嫌な人間ですいません。

Dさん うん。そうそう。馬鹿にしてるよね。

いんこ  すいません。でも、このことって、書き出すまで、吃音と関係しているって、うまく説明できなかったんですよ。書き出す中で、それがだんだん、わかってきたことで。もちろん、次の段階としては、「ここから自由になる」ということだと思うんですが、とりあえず、自己把握できたのは、それなりに大きな発見でした。当事者研究をしても、「変わること」は、難しいですし、これそのものを変えようと頑張ると余計に変えられないような気がするので、何か、別なきっかけを見つけて、巻き込まれていくような形で、僕が徐々に変わっていけばいいな、って思っています。

●「演じてしまう」ことがもたらすもの

いんこ さっきっから、話が長くなってすいません。Dさん、いかがですか。

Dさん ああ。えーっとね。いくつかあって、そうだな。「相手が求めている、自分像にのっかって、演じてしまう」ということですね。

いんこ あー。すごくわかります。「演じてしまう」なんですよね。どもるから「演じられない」じゃなくて、「演じてしまう」。

Dさん その「別人格」を相手が見ているわけではないですか。そこに、「本来の自分」を、「のっけていく」ことが、なかなかできなくて。結局、そういうのって、破綻しちゃいますよね。

いんこ わかる!とってもわかります。

Dさん やっぱり、本音でやり合えない関係性って、深くなればなるほど、「行き先は、破綻だな」って思っていて。だからこそ、深く付き合うのは怖いんだよね。

いんこ それは、さっき、僕が「優しく振舞ってしまう」と、違うのかもしれませんけど、何か、どこか、大きな構造が、近いような気がします。

Dさん あと、やっぱり、「自分が付き合っていると思っている人」とか、あるいは、「付き合いたい理想の女性」とかって、やっぱり、相手は全然そんな気が無いことが多くて、むしろ、ぜんぜん、自分がノーマークな方向から、「一方的に思われていた」、というか、他の人がね、他の人がそういう風に言っていたんだけど、自分ではぜんぜんそういうことに気づかないというようなミスマッチ感というか、そういうのがすごく多いなあって思って。

いんこ けっこうもてるんですね。

Dさん いやそうじゃなくてね。そういう人って言うのが、その時々で、一人とか、って言う感じなんだけれども。でも、自分が、「付き合いたい」と言う人はぜんぜん振り向いてくれないって言うのはすごくありますね。

いんこ 切ないですね。それは、けっこう。でも、「恋愛あるある」な気もしますね。

Dさん うん。

いんこ 「深く付き合うのが、怖い」とか、「吃音であるがゆえに、演じてしまう」というのは、とても、共感できます。もちろん、吃音だから、どもってしまって、「うまく演じられないつらさ」も、一方ではあるじゃないですか。両方ありますよね。それって・・・なんなんだろうな、って思います。「吃音とともに生きていく」って、なんなんだろう。

Dさん 恋人に限らず友達関係でもそうだと思う。

●「演じられない」ことがもたらすもの

いんこ ありがとうごいます。じゃあ、Cさん、いかがですか。

Cさん そうですね。2つ目は・・・「恋愛感情まで持っていく」のが難しい、というのがあります。

いんこ 恋愛感情。恋愛「関係」じゃなくて、恋愛「感情」なんですね。

Cさん コミュニケーションが、難しいんです。やっぱり、ひとまず、人と付き合っていく中で、相手に合わせることが、「ちょっとなかなか難しいかな」っていう。

いんこ さっきと逆で、「演じられない」方のつらさですね。

Cさん そうですね。

いんこ 恋人と言うことだと、恋人でなかったときのその人との付き合い方と、恋人になったときのその人との付き合い方とで、距離が変わるから、演じ方が変わるはず、というか、変えなければいけないような感じがするんですけど、それが、吃音をもっていたりすると、難しいですよね。それが、「恋愛感情へ持っていく難しさ」につながるんでしょうか。

Cさん そうです。

いんこ 「好きな人の前で演じられない」、というのは、普遍的な難しさかもしれませんが、吃音を持っていると、それが普通よりも大変になりますよね

●吃音の「承認」

いんこ ありがとうございました。Eさん、いかがですか。

Eさん 僕がいつも、思うのは、「追いかけたい」と思ってしまうんですよね。むこうから、アプローチしてくる子がいても、「なんか違うんじゃないかな」みたいな感じがしてしまう。僕自身、「つきあう」ってことは、なんというか、「僕のことを認めてくれること」なのかなって思います。好意を持っていて、向こうから、すごいアプローチをしてくる子には、吃音のことも、一応、説明したので、そこも、含めて、向こうは認めてくれているのに、なんか、「これじゃない」と感じてしまうんですね。そこで、自分の、気持ちがよくわからなくなってしまうということが、ありました。

いんこ Dさんがさっき言った話とちょっと近いですね、それ。

Dさん うん。近いね。

いんこ 僕も、「どもっても素敵よ」というと、「お前、何もわかっていないだろ」みたいに、思っちゃうんですよ。そういわれるほど嫌いになるみたいな。それは、今から振り返ると、そういってくれた人は、そういうつもりでいったんじゃないってことは、わかるんですけど。でも、昔、そういうことを僕に言ってくれた人に、一度、怒ってしまったことがあったんですね。それを、今、すごく後悔しています。その人はもう結婚してしまいましたが、ちょっと思い出しました。

Dさん 恋愛って「無いものねだり」だと思うんだよね。やっぱり、自分に、無い部分を持っている人を好きになるし。そういう人にあこがれてアプローチしたいと思うんだけど、現実にはそういう人は相手にしてくれなかったり、友達で終わってしまうことが多い。逆に自分のことを割りと受け入れてくれる人、っていうものに、素直に、「迎合する」っていう感覚に陥っちゃうよね。それを自分が受け入れてしまうのは、「逃避じゃねえか」っていう。

2-4.「言い換え」ととう付き合ってる?

Aさん あの、ちょっといいですか。もうそろそろ、時間で、会を中断してしまいますが、最後に相談したいことがありまして。

いんこ あ、すいません。いつも、最初に、「何か相談したいことがある人」を聞いているのですが、今日は、その時間を取るのを忘れていました。最後になってしまいましたが、どうぞ。

Aさん 今日、こういう参加したの、はじめてだったんです。相談したいのは、「言い換え」についてなんですよね。「どもりやすい言葉」には、(言いにくい)音とか、色々僕にはあるんですけど、中学生くらいの頃から、「言い換え」の癖が身についてしまったんですね。「自分でもわからないうちに、言い換えてしまう」という。「それがいいことなのか、わるいことなのか」について、とても悩んでしまうのですが、どうすればいいでしょうか。

いんこ ありがとうございます。最初、会の説明で、言い忘れていたのですが、うちの会は、「解決」は志向していないんですね。当事者「研究」会、なので、「こうすればいいよ」、みたいなアドバイスは、お互いにしないようにしています。

でも、おっしゃりたいことは、僕の中にも「思い当たる節」があって、すごくわかるような気がします。アドバイスではありませんが、多分、ここにいる人たちは、それなりに「思い当たる節」があると思いますので、一人ひとり、「言い換えとどうつきあっているか」について、シェアしていきましょうか。

まず、私からお話しますね。「吃音と付き合っていくときに起きる問題」って、本当に色々あると思うんです。「どもることそのもの」の問題もあると思いますし、「どもることを制御することによっておきる」問題もあると思いますし、あるいは、「どもることがどう眼差されてしまうか」という「見た目問題」もあると思います。

 僕の場合、「どもることを制御すること」が、「自分の言葉を裏切る」ような感じなんです。瞬時瞬時に、ことばを「裏切り続ける」ようなことが、「演じてしまう」ことにつながって、それが、「人のことを信じることができない」みたいなことにも、どこかでつながってしまっているような気がします。だから、「吃音とつきあう」って、単純に「どもることとつきあう」だけじゃなくて、すごく複雑なことだと思うんです。「堂々と開きながらどもりながら話せることがベストな解決策か」というのも、そう簡単に言い切ることは、できないと思っています。一方で、「言い換えながらスラスラ話せるのがゴール」なのも、ちょっと違うような気がします。吃音と付き合うことは、複雑なものを複雑なままに付き合う難しさ、だと思うんです。だから、「正解はわかりません」が、今の僕が持っている答えです。

 Dさん、いかがですか。

Dさん 言い換え?あのね、僕は最近しなくなった。でも、無意識にはしているかもね。意味が通じればね。使えばいいと思うんだ、どんどん。でも、ものすごく難しい言葉をね、使うとか、そういうのを指摘されたりすると、すごく自己嫌悪に陥るので、あんまりそれは、なるべく、言い換えないようにしたいな、というのが、あるね。

言いかえをしないで、どもったら、恥ずかしいっていうのは、昔はすごく思っていた。でも、今はそこまでは思わない。まあ、でも、それは時間がかかることだと思うし、自分が20代の頃は、そういうことはぜんぜん思えなかったし、言い換えとか何をしようが、スラスラしゃべれることがいいことじゃん、って思ってたよ。それは、今すぐどうこうであるということでは、ないかもしれないよね。そんな感じかなあ。

Cさん 僕の場合は、あまり、言い換えをすることは、意識は、そんなにしてないです。言い換えする理由が、ないですので、そのまま、言葉が出てくるまで、待つことにしています。

Eさん 僕は、最近は、そこまでは、「言い換え」してないです。吃音の言語症状が重くなったりとか、そのせいという感じもしているんですけど。別の言葉に言い換えることで自分で自分の首を絞める、みたいなことは、なくなりました。言い換えをしていて、今よりも、どもっていなかった高校生くらいの頃の方が、しんどかったです。

いんこ 前に比べて今の方が言語症状は重いけれど、言い換えをしていた前の方が、しんどかったんですか。

Eさん そうですね。トータルではわからないですけど、今の方が、自分から積極的にしゃべりにいくことができるので、昔よりは楽になったかな、と言う感じです。あくまでも僕個人の感覚では、ですけど。でも、正解はわからないです。

Dさん ちょっといいですか。なんか、僕からみて、Eさんのしゃべり方って、ひふみん(加藤一二三)とか、横田しげるさん、に近いのなかな、と見えたんですね。しゃべるときに苦しそうなんだけど、でも、しゃべるときに、話し方に注意を向けたり制御しているんじゃなくて、内容を見ているような気がして、それって、吃音症状にとらわれているよりはよっぽど幸せなことだから、なんていうか、すごくいい。いいと思う。うん。多分、あの人たち(加藤さん、横田さん)って、自分が吃音だと思ってないんですよね。

いんこ ひふみんって吃音者なんですか。

Dさん あの人、多分、そうじゃない?そうだけど、気づいてないか、気にしてないタイプの人だと思う。一方でさ、戦場カメラマンの人とかは、あの人は、自分の症状と言うのをわかった上で、制御しながらはなしている感じだよね。

いんこ あの人、吃音なんですかね。たしかに、「っぽい」ですけど。いかにも。

Dさん 自分が吃音だってわかった上で、あのしゃべりかたにしたと思うんだよね。それはそれで努力がいったろうし、その結果、あんな風に、話せている。それはそれでひとつの「答えだ」と思うけど。

いんこ 隠れ吃音者でも、うまく隠れ吃音できている人と、僕みたいに、過剰に演じすぎて人を信じられなくなっている隠れ吃音者、みたいな、人もいる気がして。その違いってなんなんでしょうね。

Dさん やっぱり、どこかで、「折り合いをつけよう」という、そういう気持ちがあるか、っていうことじゃないかな。それとも、「やっぱり、これじゃダメだ」という非常に思っているか、ということの違いなのかな。あのくらいの年齢になると「折り合いを付けざるを得ない」っていうのも、あるよね。

いんこ ありがとうございます。いかがですか。Aさん、こんな感じでですが、

Aさん 自分は、もう時間なので。でも、皆さんのお話が聞けてよかったです。今日は皆さん、ありがとうございました。

※Aさん、退出

2-5.感想のシェア

いんこ もう少しでお開きにしようと思いますが、最後に感想をシェアしたいと思います。今日は、みなさん、いかがでしたか。

Eさん 僕、今回参加するのが3回目ぐらいですけど。

いんこ ひさしぶりのご参加でしたよね。

Eさん 先ほどしゃべった、「吃音の症状が出ちゃって、相手の女の子から引かれてしまった」って、実は、昨日あったばかり話で、けっこうショックだったんです。

いんこ タイムリーだったんですね。

Eさん 今日、参加して、話をして、そうですね、やっぱり、なんていうんだろ。ちょっと、僕も、「スムーズにしゃべろう」みたいな感じで、気負っちゃったところがあって、だから、そこの気持ちとうまく付き合うことが、できなかった、というもどかしさがあって。なんていうのかな、「恋愛と吃音は難しいな」って、改めてかんじましたし、こうやって、皆さんの話を聞いていて、まあ、僕も、もうちょっと、前向きに頑張ってみようかな、という幹事にもなれたので、「今日は参加できて、よかったかな」と思います。

いんこ ありがとうございます。

 Cさん、いかがですか。

Cさん そうですね。難しい話もあって。いろいろと、参考にしたいな、と、自分にとっても、恋愛と吃音に向き合っていくのは、大きなことなので。

いんこ ありがとうございます。Cさんの問題は、結構切実な問題でしたよね。勇気を出して、自分のことをお話くださいまして、本当にありがとうございました。

Cさん いえ、こちらこそ。ありがとうございました。

Dさん あのさ、今度、このテーマでやるときは、もしかしたら、恋愛の成功者を連れてくるといいかもしれないね。成功者から聞きたいじゃん。「どうしておまえはうまくいったんだ」っていうのをさ。今日、東大スタタリングに行くのに、Cさんを誘ったんだけど、その時、その場にHさんっていう人もいたんだよね。Hさん、吃音持ってるけど、結婚してるじゃん。あの人も誘えばよかったかなあって。今度、埼玉言友会で、このテーマでイベントやるときはさあ、既婚者の人も何人か、体験談を話してもらおうよ。

いんこ もっとプラスの面にフォーカスをする当事者研究も重要かもしれませんね。そこから得られることも多いんじゃないか、と思います。

みなさん、今日は、どうもありがとうございました。時間がきてしまいましたので、今日は、じゃあ、これで終わりにしましょう。お疲れ様でした

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