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『日本人のポルノ』について

 「ポルノ」という言葉は、独特の響きを持っている言葉です。僕たちの世代で、本物のポルノを、「ポルノ」と呼ぶ人はあまりいません。エロ本とか、AVとか官能小説とかいう言葉は、割とよく使いますが、「ポルノ映画」とか「ポルノビデオ」とか「ポルノ小説」という言い方は、ちょっと古臭い言い方のように感じられます。  でも、「ポルノ」という言葉をまったく使われなくなったか、といえば、そういうわけでもありません。ポルノグラフィティという音楽グループがありますし、去年の夏ごろには、「感動ポルノ」という言葉が、話題に上がりました。  そう考えると、ちょっと「ポルノ」というのは面白い言葉だな、と思います。僕たちは、本物の「ポルノ」に対しては「ポルノ」とはあまり呼ばず、「ポルノを連想させるもの」に対して「ポルノ」という言葉をよく使っているようです。  もともと、「ポルノ」という言葉は、「性的な興奮を連想させることを目的に表現したもの」を指します。つまり、現代の僕たちは、「性的な興奮を連想させることを目的に表現したものを連想させるもの」に対して、「ポルノ」という言葉を使っていることになります。そして、ある人のやっていることが、性的な興奮を連想させることを目的に表現したものを連想させるものを目的に表現している人たちだと連想された場合に、僕たちは、「あいつのやっていることは、ポルノだ」と指摘するわけです。  「ポルノ」という言葉は、このように、非常に複雑な使われ方をしている言葉です。きっと、こんな複雑な使われ方をするようになったからには、それなりの「事情」が、僕たちや、僕たちの社会にはあるのでしょう。

 今回のタイトル『日本人のポルノ』は、吃音を題材にした戯曲として有名な井上ひさしさんの『日本人のへそ』を念頭においてつけました。また、タイトルの「ポルノ」という言葉が連想させようとしている「ポルノ」とは、強いて言うのなら、「感動ポルノ」の「ポルノ」です。つまり、今回の作品は、『日本人のへそ』というタイトルと、そして、その背後にある「吃音」と、そして、「ポルノ」という言葉の背景にある「感動ポルノ」とを、連想させる「ポルノ作品」です。この作品は、そういう、とても複雑でめんどくさい構造の下に成立しています。

 これまで、吃音者の表現は、「感動ポルノだ」と語られることは、ほとんどありませんでした。僕の経験で言えば、人がどもりながら話すのを観て、「感動ポルノだよね」と指摘する人は、あまりいません。むしろ、「どもりながら話すのには迫力がある」ですとか、「どもりは革命の歌だ」とかいう風に励まされることが多いように感じられます。  「ポルノ」として眼差される可能性があるにも関わらず、あまり「ポルノだ」と指摘されないというからには、やはりそれなりの「事情」があるはずです。そのように僕は「連想」します。だとすると、その「事情」とは、いったいどんな「事情」なのでしょうか。

 なぜ、吃音者の表現は、「ポルノ」と語られることが少ないのか。そして、そのことを、なぜ、僕が、わざわざ演劇という形で表現しようと思ったのか。その背後には、いったい、どのような「事情」があったのか。観劇して、これらのことを「連想」するのは、観客の皆さんの自由です。ぜひ、僕たちの作品を見て、いろいろな「事情」を「連想」し、できれば、「感動」してもらえると、「ポルノ」の作り手としては、幸いに思います。

公演名:『日本人のポルノ』

日時: 11月26日(日) 12時30分~13時30分

場所: 駒場小空間(駒場祭イベント文三劇場内の上演として)

※本公演は、メンバーの体調不良が原因で、中止となりました。本公演観劇のために予定を空けてくださいました皆様、楽しみにしてくださいました皆様、ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ございませんでした。

上演台本『日本人のポルノ』は、近日、何らかの形で、公開する予定でおります。

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