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2026年7月24日東京言友会三田例会『文章教室』活動報告文

  • 7月31日
  • 読了時間: 17分

 いんこです。


 4月・5月に続き、7月24日、東京言友会三田例会『文章教室』の担当をさせていただきました。


 『文章教室』の三田例会は、当初は、6月を予定していましたが、台風のため、延期となり、予定の1か月後の開催となりました。この日の夕方も、雷雨があったので「今日、もしかしたら、誰も来ないかもね」と受付のHさんと話していたのですが、結果として、9名もの人が参加をしてくれました。天気の悪い中、参加をしてくださった皆様、ありがとうございました。


 前回・前々回に続き、当活動ブログで詳細を報告させていただきます。記事化を承認してくださった参加者の皆様、また、東京言友会運営委員会の皆さまに感謝申し上げます。


 以下、活動報告文です。


1.当日の進行


 当日は、①自己紹介・近況報告⇒②過去に言友会が発行した体験集(2つ)についての話し合い⇒③作文・休憩(30分~40分)⇒④読み上げ⇒⑤感想の共有、という形で進行しました。過去に言友会が発行した体験集は、『どもるあなたに』に収録されている二つの体験談を紹介しました。


 かなり時間ギリギリになってしまいましたが、進行自体はうまくできた気がします。


 一方で、担当者側の僕としては、普段の例会ほど「話し合い」の時間を持てず、ちょっと消化不良に感じてしまったところもありました。多くの論点を含む「語り」がたくさん出されただけに、話し合いで掘り下げたら面白かったと思われる内容も多かったので、そこが少し残念だったかもしれません。時間の制限がある中で、どれだけ、吃音に関して深く話しあえるのか、というのは、会を運営する上での難しさだなと思いました。


2.作文


 以下に、例会当日の参加者の方たちが書かれた作文をいくつか、ご紹介します。掲載を許可してくださった皆様、ありがとうございました。



●『どもりは私の命そのもの』(佐藤隆治)


 時代の先端を掻き分け、そして駆け抜ける様なエンジン開発、その中で最重要キー技術の一つである材料研究開発。これぞ、私が本田技研工業に入り、やりたかった仕事で、そんな仕事に就けたこともある。

 電話の呼び出し。全棟放送。「み、み、み、みや、や、ざ、さわさん。じじ事務所におおお電話です」

隠しようのないどもり方。声がマイクに乗って全棟に。「ああ。どもるがまま、全棟に流れているな」。カイロス時間であり、スローモションのように聞こえる。

 「だだ第一研究室から移動してきました さ、さ、さ、さ、と、ととう た、たかはるでです。よよよろしくお願いします」ふぅー。新研究室のメンバーは皆、静かに聞いてくれてはいた。しかしながら、私のこのどもる酷さよ。30過ぎになっても、こんな酷いどもり方の自己紹介で、お前は一体大丈夫か?!

 酷く吃った。ならば、発声練習などやるか?ああ? いや、そんなアホな事、治すための発声練習など、一切やらない。やってたまるか。やる必要なぞない。

 論理療法、CBT、森田療法目的本位な生き方を、セルフヘルプグループ、言友会やその全国大会ワークショップの場で、学んできた。どもりを治そうとする努力・試みは逆効果となる。治そうとすればするほど、治らない。無駄な時間浪費はやめて、治す試みは一切せず、吃音と共に生きて、自分らしい素晴らしい人生を送ることはできる。「どもりは惨めで悪いものだ」との思い込み・認知の歪みがあるから、「今日は大失敗だ」と思ってしまっているだけだ。イラショナル非論理的な、「どもりは恥だ」という思い込みこそが、「気分の落ち込み」の原因だ。

 全棟放送した結果、宮澤さんが間違いなく電話取りに来たのでそれで良し。自己紹介は、自分の大どもりを開示できた・知ってもらえたので、良い自己紹介機会となっていたのだ。論理療法の学びが深層にあったので、しばらくしたら、意識しない内に現実的ラショナルな考え方に移行できていた。

 (コホッコホッ)「佐藤さんは、緊張気味だから、明日の半期の技術報告会、大石さんに代わってもらおうかね?」「えっ?いや、私今日の事前発表練習、まあつっかえてままましたが、あああす明日の本番は、しっかり準備して臨みます。これはわわわ私が担当した苦労してたどり着けた内容なので、わわ私が発表したいです」

 本田技研工業の自動車エンジニア研究職、40年近く。どもりの症状の多い・少ないに拘らず、研究開発を通じて、職場そして社会と関わってきた。体がどもりたがっている時は、好きなだけからだにどもらせてあげたい。治す・改善するの、カモフラージュ行動はもうまっぴらだ。できるだけ、堂々と吃るのだ。



●『吃音』(匿名希望)


 吃音とは何だろう。吃音がある私とは何なのだろうかとふと考える。仕事、趣味をがむしゃらに楽しむことで、吃音を覆い隠していた。なぜならその方が吃音が出にくい、辛い記憶と向き合わなくて済むからだ。家族の問題が重なり、仕事、趣味ができなくなることで、鳴りを潜めていた吃音の姿がちらつき始めた。調子がいい時間が2年以上続き、吃音のことなどすっかり忘れていた。乗り越えられたと心の底から思い込んでいた。吃音とあらためて向き合い、わかったことは吃音と大きい枠組みで捉えるのではなく、吃音によって生じる何に対して私は悩んでいるのだろうか、それを明確にすることが私にとって必要なことだった。

 治る、治らない、乗り越える、乗り越えられないそういう次元の話ではなく、吃る今この瞬間を認め、この瞬間からどう在りたいのか、どう成りたいのかという問いを自分に問い続けること。毎日決めたことを着実にこなし、その日の最善を尽くすこと。何でもいい、少しずつ積み重ねる。それだけでいい。

 この世に生を受けた全ての人間は何かしらの悩みを抱えて生きている。吃音がある私と彼らは何ら変わらない。他の人間より考える機会が多いだけなのだと。自助会で多くの人たちと出会い、そう感じることができた。



●無題(匿名希望)


 夢見たことが何度もある。ある日気持ちよく目が覚めると吃音の不安が消え、普通の中学生のように、普通の高校生のように普通の声で悩み、一日がくもりなく始まる日がくることを。

 喫茶店で一人、パソコンに向かって作業していると隣りの女性の二人組が延々と会話を続けている。話の内容は極めて身近なことだ。身近な人々との生活の中で感じた違和感、気づき、不満をきれいに言語化して消費させている。言葉によって会話している二人が理解し合い、共感し、具体的に何か生活の課題が解消したわけではないだろうけれど、一つずつ悩みや生き苦しさが解消されていく。

 言葉が浮かび上がった瞬間に、それが話やすいかを考えずに口にできたらどれ程世界が自分の手中にあると感じられるだろう。実際は逆だ。言葉を出す度に言いたい事、伝えたいことそのものではなく、いかに流暢に話そうか、ということに意識が向く。どもる度に意識が話し相手から遠ざかり、自分の口やのどに向く。かろやかに言葉をあやつり、周りを笑わせたり挑発したりして、言葉で世界をコントロールしている相手に嫉妬する。



●『自分の吃音について』(匿名希望)


 私が初めて東京言友会の例会に参加したのは確か昭和61年度の吃音者講習会からだったと思う。参加した動機だが吃音で悩んで参加したのではなく友達が欲しかったからだと思う。私は小さい頃から吃っていたが、吃音で深刻に悩んだ事はない。多分人と話す時は吃音がそんなに障害にならなかったからだと思う。例会に参加して吃音者が大勢いる事に驚いた。参加した当初は例会が終わった後で皆とお酒を飲みに行くのが楽しかったが、例会に参加している内に吃音で深刻に悩んでいる人が多い事に気づき、その人達が皆の前で自分の悩みについて話すのを聞いていると自分と随分違うと思った。この会は自分にそぐわないと感じる様になって来たが、その頃例会に第一地区のHさんが参加されて話をしたが、最近私が登山を始めた事を話したらHさんも登山が好きな様で話が弾み今度一緒に行こうという事に成り私とHさんとその友人のFさんの3人で奥多摩の雲取山に登山に行きました。色々アクシデント等あったが楽しかった。それが縁で第一地区の例会に参加する様に成った。この会は吃音の話は余りせずに、リクリエーションが盛んで独自のテニスサークルを持ち、一般の人も参加していて、休みの時に合宿等も行っていた。私はこちらの方が自分に合っていると思い、第一地区の例会に参加する様に成った。参加している内に段々と会の運営に係わる様に成り、その後、会が分裂したりして今日、日暮里例会という名称になっている。私が会の運営に携わる様に成って一番嬉しい事は、参加した人から例会に参加して楽しかった、どうも有り難うと感謝される事だ。人の役に立てて良かったと思う。これが私の率直な気持ちです。



●『久しぶりの言友会』(匿名希望)


 2017年半ば頃に上京するまでは、札幌に住んでおり、当時は北海道言友会に何度か参加してお世話になっておりました。

 上京してからは、自分の吃音が以前と比べ比較的軽くなったことと、また吃音をあまり意識したくない気持ちが芽生えたため、しばらく言友会の参加は遠のいておりました。

 しかし、2024年頃仕事のストレス等で吃音が悪化することもあり、再度同じ悩みを持った仲間とまた交流を持ちたいと考えが変わりました。

 北海道に居た時の例会は、ほとんど毎回吃音についての悩み相談がメインでしたが、東京言友会での例会は悩み相談以外にも、マインドフルネス、吃音改善講座、面接練習等などテーマが豊富で刺激を受けました。同じ言友会でも地域が異なればこんなにも違うんだ!と感動したのを覚えております。

 今年の5月からは運営委員にもなったので、例会に参加するだけではなく、自分でもテーマを決めて例会を担当したいなと思います。


●『そんな単純じゃないんだよ!』(匿名希望)


 「吃音が憎い」という体験談を耳にした。かつての私もそうだった。今も本能的にはそうなのかもしれない。

 でも今は、知恵がついてしまった。吃音を憎んだところで、人生は好転しない。その事に、若いうちに気付けたのは、幸運だったと思う。憎むも憎まざるも、吃音は自分の中にある。だったら、憎むことにエネルギーを使うことはもったいない。今を楽しむのが最善だ。

 少し綺麗事を書いてしまった気がするし、これからも綺麗事を書いてしまうのかもしれない。

 吃音は、テクニックで改善はすると思う。自分も一定程度は改善した。でも、本質的に吃音者であることは、変わらない。非吃音者のような、言葉が出るタイミングに一切の淀みがない「あの感じ」には、到底及ばない。

 ただ、一定程度、改善には価値があるとは思う。仕事も結婚も、それでスムーズに行く事もあると思う。

 と、これまで書いてきた文章を見返すと、吃音を「憎んでいない」のに「改善にはポジティブ」と、一見相反した内容になっている。それは、そうかもしれない。

 でも今、頭で考える私に、「あなたは吃音者で良かったですか」と問われれば、まちがいなく「吃音者で良かった」と答える。でも理性が飛んだ自分がどう答えるかは、わからない。



3.いんこの作文


 最後に、いんこが書いた作文も掲載します。例会の当日に書いたものに、翌日、書き足したものです(中村久子さんの詩の引用など)。



●『受容雑考』(いんこ)


 先月の巣鴨例会で「吃音を受け入れるのが難しい」ということについて、少しだけ話しあう時間があった。症状の改善のアドバイスをする人や、随意吃を推奨する人もいたが、その場にいた人達がそれぞれ「どうしたら吃音を受け入れられるか」「自分はどんな風に吃音を受け入れてきたのか」について、一人ずつ話していった。僕も何となくその時に考えていたことを(もう何を言ったのかあんまり覚えてないけれど)話した。その後、自分の中で、色々とモヤった。

 「受け入れる」って何だろう。「受容」という言葉や「受け入れる」という言葉を使う時、それぞれの人が何を指しているのか、また、そうした語りに共感したとか共感できなかったとか言う時、その人が何について念頭に置いて話しているのか。正直、僕にはよくわからないところがある。

 障害受容という概念については、1990年代に様々な検討がなされ、批判的にも議論されてきた。今、支援の現場では、かつてほどこの「受容」という言葉は使われなくなりつつある。社会モデルを支援の基軸とするような考え方が浸透した2010年代以降は、その傾向は、なおさら強まっていると言えるかもしれない。

 吃音の世界で言うと、伊藤伸二さんが、1995年に開催した第1回の吃音ショートコースのテーマとして、「障害の受容」ということを設定している。しかし、最近の伊藤さんの本を読むと、「私は『障害受容』という言葉が好きになれません。当事者よりも援助者の視点で『受容すべきだ』と語られることが多いからです」「『どもる事実を認める』だけで十分」などと書かれている(伊藤伸二・国重浩一『どもる子どもたちとの対話』より)。しかし、それでも、やはり、伊藤さんの会の中では「どもる覚悟をすること」や「ゼロの地平に立つこと」が重要な体験として語られているように見えるし、言友会とJSPとを問わず、「吃音を受け入れられない」だとか「今では受け入れられるようになった」ということが今でも当事者の体験として語られ、そして、書かれる。やはり吃音の支援の現場では「吃音を受け入れられるようになること」がある程度重要な体験であるように語られているように、僕には見える。

 でも、繰り返しになるが、「受け入れる」って何なのだろうか。正直言って僕には、(それは、幼い頃、言葉の教室で良質な支援を受けてきたこととも無関係ではないと思うのだが)「吃音を受け入れられなくて苦しみ、もがき、葛藤した」という体験があまりない気がする。だから「受け入れられない」と言って、受容の思想に反発する人の気持ちも、また、「昔は受け入れられなかったけれども今は受け入れられるようになりました」と穏やかに語る人の気持ちも、よくわからないところがある。一方で、「なんだ、それでは、お前は、吃音に悩んでこなかったのか」と言われると、「それは違う」と反論したくなる。確かに悩んだし、イタイ経験もたくさんしたし、そして、多分、かなりこじらせた。吃音という当事者性は、ある時期、僕にとって、とても切実な当事者性であり、今の僕にとっても、かつてとは異なる形で、やはり重要な当事者性であり続けている。

 僕が当事者活動を開始した当初、求めていた文脈は、「どうすれば治るか」だとか、「どうすれば改善できるか」ということとも、また、「どうすれば受容できるか」ということとも、多分違ったことであった。医学モデルにも、また、「受容」という大きくて曖昧な言葉にも回収されない別の言葉を、確かに僕は求めていた。たぶん、もっと繊細な言葉で、吃音の体験を拾いたかったのだと思う。正確な、でも、見方によってはチマチマとした言葉を探してた、というべきだろうか。

 先ほど、障害受容という言葉自体が支援現場においてだんだん死語になりつつあるということを書いた。それでも、当事者にとっての受容という概念は、完全に、陳腐化した言葉であるとも言い難い。当事者にとって、受容という概念は、やはり重要な概念であり続けているという主張も、今なお存続している。

 僕は小学生の頃、言葉の教室で、中村久子さんという女性の自伝を読んだ。中村久子さんは、四肢欠損という重度障害の当事者でありながら、「自立」した生活を送った女性として知られている。幼い頃、壊疽によって両手両足を失う。7歳の時、「お前のことを一生かけて守ってやる」と誓ってくれた父親が亡くなる。その後、現在で言えば虐待とも言われかねないような厳しい教育を母親から受け、成人後は、「自立」のために、「だるま娘」の名前で、見世物小屋で芸人として働くこととなる。残酷でエロチックな丸尾末広のマンガ『少女椿』は、中村久子さんをモデルにしているとも言われている。来日した際に面会したヘレンケラーは、「私よりも、ずっと、ずっと、苦しさに耐えてきた人!私よりもずっと偉大な人!」とその場で泣き崩れたという。盲ろうという極限状態を生きてきたヘレン・ケラーでさえも、その生き方に強い衝撃を受けたほど、中村久子さんの人生は壮絶だったのである。

 般若心経に親しみ、自らの体験を発信してきた中村久子さんは、「受容の人」のシンボルのような存在として、一時期メディアで取り上げられ、そして、その生き方や言葉は多くの人達から共感を呼んだ。


 あるあるある


さわやかな

秋の朝

「タオル取ってちょうだい」

「おーい」と答える良人(おっと)がある

「ハーイ」という娘がある


歯をみがく

義歯の取り外し 

かおを洗う


短いけれど

指のない

まるい

つよい手が 

何でもしてくれる


断端に骨のない 

やわらかい腕もある


何でもしてくれる 

短い手もある


ある ある ある

みんなある

さわやかな

秋の朝

(中村久子『こころの手足』より)


 しかし、一方で、中村久子さんは、次のような言葉も残している。


 あきらめよ、と言われて手足のない私は決してあきらめ切れるものではありません。あきらめ切れるものか、切れないものかそれは本人の身になつてみることだと思います。(中略)あきらめよ、と仰言る前に先ず御自分の手から足を一本でもよいから、切り落として同じ苦しみと悲しみの体験を味わつていただきたいと私はいつも思います。

(中村久子『御恩』より)


 同じ「受容」という言葉を使っていても、その体験の内実は、人それぞれにおそらく異なる。また、軽度の障害として分類されがちな吃音は、中途障害や一般に重度障害とみなされる障害とはおそらく質的に異なる生きづらさを有しており、その「受容」の内実も、もしかたら、異なる内容が含まれていると言えるのかもしれない。しかし、僕は中村久子さんの言葉に触れてから、「受容」という体験は、そのことばの一見すると穏やかな響きとは裏腹に、ものすごくシビアで壮絶さを伴う体験であるというイメージを強く抱いてきた。だから、現在の僕は、同じ「受容の言葉」であったとしても、たとえば、「吃音は個性である」と語る言葉には、どちらかというと、あまり共感することができない。「個性だと思えるから、吃音を肯定できる」「個性だとは思えないから、吃音を肯定できない」という論そのものに加担することに抵抗があるし、特定の価値意識(個性的なものには価値がある、という思想は現代を席巻する新自由主義的な人間観とも親和的である)に基づいた「肯定的意味づけ」は、当事者の置かれている絶望やシビアな現実を直視した上での「それでも、にもかかわらず、生きる」という、ほとんど全身を賭けた、綺麗事だけでは済まされないような、生きることそのものについての「存在論的な対峙」であるようには僕には思われないからだ。

 吃音を持つ人が置かれている、絶対的な絶望とは、ごまかすことのできないシビアな現実とは、何だろうか。自分は、どもりである。いくら見た目の症状が軽減しようが、訓練によって少しばかり症状が改善しようが、自分は吃音を持っていて、それは、一生、治ることは、ない。自分の身体は、他の人達とは、決定的に、違う。肯定できようが、できまいが、受け入れられようが、受け入れられまいが、吃音とは、一生、付き合っていくしか、ない。そんな、眼をそむけたくなるような、泣きたくなるような、足のすくむような、圧倒的な現実をまっすぐに見据えて、それでも、生きていくしかない、というような、ある種の「実存的な、死」。そのようなイメージを、僕は障害受容という言葉に対して抱いているところがある。はじめて、伊藤伸二さんのサマーキャンプに参加した時に僕が体験した「どもる覚悟」や「ゼロの地平」の内実は、僕にとって、そのような体験であった。そして、そのような血が噴き出るような「心理的な修羅場」を経た上で、「どもるからといって、吃音を持っているからと言って、自分を否定することはない」「どんな身体を持つ人も、その身体のままで、他者から尊重され、自分を肯定して、人と関わって生きてよいのだ」「幸せに生きてよいのだ」ということを確認しあったのが、最終日の演劇の時間であった。

 かと思えば、「まぁ、いいか」くらいの軽いような「受け入れ」のような体験も、確かに僕は、吃音に関して、してもいる。やはり、あまりにも質的に異なる体験が「受容」という言葉には、詰められているように思われる。

 考えてみれば、僕は、かなり、不思議な当事者である。先に書いたように、僕はそもそも、「吃音を受容できなくて苦しんだ」わけでも、「受容を求めて当事者活動を始めた」わけでもない。僕自身は、ヴァン・ライパーやスキャットマン・ジョンや金鶴泳のような、「吃音の苦悩のエリート」では、決して、ないのである。にもかかわらず、当事者活動をする中で「受容」という概念に何度も出会い、そして、伊藤伸二さんのサマーキャンプという特殊な場で、「受容」に関する極めて鮮烈な体験をし、僕なりの「ゼロの地平」に立たされたのである。

 現在の僕は、「受容することが正しい」だとか「こうすれば受容できる」だとか、そんな尊大なことは、誰に対しても言うことができない。先の巣鴨例会で、「受け入れられなくて困っている」と相談をしに来てくれた女性に対しても、そのときの僕は、確か、そのようなことを語った。

 会の終了後、その人は、「話せてよかった」と僕に個別にお礼の言葉をくれた。彼女にとって僕の言葉がどれほどのものであったのか、僕にはよくわからない。その人とのやり取りに関わらず、最近の僕は、人から何事か吃音に関して相談を受け、そして、何事かを答えることがある。彼女のように、「あなたと話せてよかった」と言ってくれる人もたまにいたりするのであるが、僕は、僕の言葉がどれほどその人を幸せにしているのか、よくわからない。

 気が付けば吃音の世界に踏み入れて十年ほど経ってしまった。受容してもしなくても幸せとは無関係だという気もするけれど、何を受容したら少しはマシに生きれるのか、なんだかよくわからないまま、今の僕は生きている。今の僕は、多分、大して幸せではない。


(最近詠んだ短歌)

シリウスよ神よウンコよ聞いてくれ吃るしモテないつらいさびしい


(当日、書いた原稿。「原稿用紙に書くなんて久しぶり」という声もありました)
(当日、書いた原稿。「原稿用紙に書くなんて久しぶり」という声もありました)

 参加された皆様、ありがとうございました。

 
 
 

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